密室殺人ゲーム王手飛車取り/歌野晶午

密室殺人ゲーム王手飛車取り (講談社ノベルス)

密室殺人ゲーム王手飛車取り (講談社ノベルス)

 
 以前にこんな推理小説の筋を考えたことがある。
 
 時は近未来、コンピューターによる堅牢なセキュリティが睨みを効かすある部屋で男が殺されているのが発見される。犯行当日の防犯カメラには部屋に入る不審者は映っておらず、縦横無尽に張り巡らされた赤外線センサーが反応した形跡もない。完全な密室状況下、犯人は殺人を見事になし終えたのであった。
 ところが、翌日には犯人は捕まってしまう。犯人は自らが考案した密室トリックには絶対の自信を抱いていたはずなのになぜ捕まってしまったのか。不思議がる犯人に警察は種明かしをした。
 「現場の密室内の空気をすべて検査にかけたら、あなたの体から発散された汗や唾液に含まれるDNAが発見された」。つまるところ、近未来の警察は科学があまりにも発達しすぎていたために、トリックなど解く必要が無かったのである。犯人が現場に少しでも存在していたことがあれば、その痕跡は全て見つけ出されてしまう。
 
 我ながら面白くもなんともない小説の筋なのだが、本書を読んでいてこの小説を何となく思い出してしまった。
 
 古来より本格ミステリにおける犯人は証拠を隠滅し、逮捕されないようにふるまってきた。しかし本書の犯人たちはわざと現場に証拠を残していき、捕まることを望んですらいるという通常の本格ミステリとは反対の概念に支配されている。この在りようを現代的な異常自己顕示欲と括ってしまうのは簡単であるが、実はそうでもないんじゃないかという問いかけが本書にはちらほらと見え隠れしているような気がしてならない。
 
 「インターネット」、「(殺人)ゲーム」といった本書の諸要素は確かに現実世界において生命の重さや倫理感をとぼしめているとしばしば非難の対象されるものだ。いわく「現実と虚構の区別がつかない」。いわく「ゲーム感覚で人を殺す」。いわく「生命の重みを知らない」。インターネット世代の殺人犯たちを、容易に想像がつくほど紋切り型の言葉でしか表してこなかったのが我々*1である。
 
 しかしはたして、彼ら殺人犯たちは本当に生命/死という枠組みを持たない人種なのだろうか。この疑問が本書を読んでいる間、ずっと頭に浮かんでいた。
 主人公たちは自らの犯した殺人の現場に、ありえないほどわざと痕跡を残していく。フェアなゲームを成立させるためという建前以上に、自分=犯人という明確な存在の提示が主たる理由であろう。本格ミステリにおける犯人の痕跡=捜査側にとってのヒントは「犯人が生きてこの場所に存在し、事をなした」という生命の手形。この手形を嬉々として生産し続ける犯人たちの生は逆に生々しすぎるほど克明ではないだろうか。なまじ被害者の生命を蔑ろにしすぎたために死の冷たいイメージだけが先行しがちであるが、犯罪を行っているときの犯人ほど生命に溢れた存在はないというのもまた真理ではないだろうか。つまり、被害者の生に焦点をあてるばかりが推理小説ならず、犯人の生々しい生に焦点をあてるのも推理小説であるという重大な示唆が本書ではなされているのである。そのために、被害者の属性は全て捨象されねばならず、被害者をランダムに選出する推理ゲームという極端な体裁が取られたのである。
 
 ときには現地に赴きアクティブに証拠を残す/集めるといったゲーム中の様々な駆け引き、感情的にすらなる推理の応酬、終わったあとの祝杯。首肯はしかねるが、彼らは実に楽しそうである。彼らが生命とは無縁な存在であるとは私は一読者として思わない。彼らは彼らの生命を謳歌している。ならば、ゲームを進めるうちに自らが生命に溢れていることに気づいてしまった主人公が、あの評判の悪いラストに向かっていってしまったのもむべなるかな。生命/死を自分たちは認識しているかどうかという踏絵は必然であったのだと思う。
 
 というわけで、本編の個々のクイズも楽しんだが(余談だが生首が一番アホで面白かった)、それ以外のところでも十分に楽しめました。笠井潔あたりはなんてコメントするのかしら。

*1:私はそうじゃないという人もいるかもしれませんが。