夏の魔法/北國浩二

夏の魔法 (ミステリ・フロンティア)

夏の魔法 (ミステリ・フロンティア)


 早老病という現実を背負わされ、余命幾許も無い児童文学作家の主人公。その短い人生の中、最も美しい想い出が眠る南の島で最期の夏を過ごそうとする。そこで偶然にも初恋の男性と再会してしまうのだが…。
 
 あらすじや帯、本作が《ミステリ・フロンティア》叢書の一冊である事実、作中に点在するあまりにも不自然な伏線*1等々で早々に着地は読めてしまう。しかし、それは決してこの作品を貶める理由にならず、むしろ作者の強固な筆力で「これでもか」と期待を裏切らない展開が望める。かつて小野不由美貫井徳郎『慟哭』を結末は容易に想像できるが、その着地過程を楽しむべき作品と評していたが、本書もその例に漏れない作品だと思う。常々思っていたがこれは体操やフィギュアスケートのようなもので、何が演じられるのかは事前にある程度告知されている上で、観客は実際の演技に只々息を呑むばかり。全て終わった後、そこに目新しい技や芸術的な表現があればそれは加点に値する。
 
 また西澤保彦なんかと比較すると解かりやすいと思うが、嫌な人物を読者に存分に嫌がらせるのを得意とする西澤に対し、さほど嫌らしくもない人物を主人公視点フィルターを通すと果ての無い嫉妬の対象に見せかけてしまう筆致は純粋に賞賛したい。タイトル「魔法」はこの読者にかけられたフィルターをも意味していると邪推したくなる出来である。
 
 また、本作のトリックについても触れておきたい。あまりにも唐突に、しかし予定調和的に本書終盤で用いられたあるトリックは、誰の目にも明らかに全体から浮いている。実際、私は描写を読んでもどのような事が行なわれたかビジュアル的に全くイメージを喚起されなかったし、作者の淡白すぎる筆に白々しさを存分に感じた。以上の感想はトリック中心主義の見地に立った場合、貶し言葉でしかない。しかし読了した今では、あそこはあのように描写されるべきだったとしか思えず、作者の英断に拍手を贈りたい。
 
 その理由は以下の通り(以下ネタバレ反転)。
かつて推理小説家を目指したこともある主人公は、トリックをいくつか考案するも、想像の中で殺人を犯すことに躊躇を覚えこれを放擲する。なぜなら主人公は病魔という辛い現実に直面しており、その逃げ道としての空想はユートピアでなければならなかったからだ。しかし、自らの正体を最愛の人に知られるという現実とそれを持たらす女に対し、主人公はその禁を破ってしまう。空想を侵そうとする現実を打ち砕く、空想の剣としてトリックは位置づけられているのだ。この時点では主人公は、現実は醜悪、空想は美しいという観念に支配されている。だが、主人公の美しい想い出を守るはずの魔法の剣は、いざ振るわれるとあまりにも血の通わない、ひたすら寒々しいだけの血塗れの剣であった。主人公の空想至上主義は、トリックが成功した瞬間に逆説的に崩壊してしまう。トリックが機械的なのも、誰にも見破れないほど偏執的なのも、全てこの残酷さ――心の拠り所にしていた空想が邪悪に染まり、主人公は逃げ場を無くしてしまう――を描くためだけに配置されていたことを読者は終章に至って知るのである。これを秀逸なトリックの使い方と言わずになんと言うだろう。
 
 毎度毎度の論調で非常に申し訳ないが、本作はミステリ的観点から見て稀有な成功例と言えよう。

*1:と、あのシーンやあの発言に対して筆者は思ったのだが。