奇術師の密室/リチャード・マシスン

奇術師の密室 (扶桑社ミステリー)

奇術師の密室 (扶桑社ミステリー)

 長々と更新サボってしまった。怠惰な性格である。
 で、更新復活一冊目は本書。リチャード・マシスンは初めて読む。
 

 大まかな粗筋は語り手である植物人間(ただし意識あり)デラコートの眼前で、その息子マックスが延々と来訪者相手に趣味の悪い奇術を延々と仕掛け続けるだけである。物語の中盤で殺人らしき事件まで起きてしまうが、事件を起こした張本人が気が狂った(ように見える)奇術師であるばかりに、それが本当に起こった出来事なのかはたまた奇術の一環なのか。読者はただただ煙に巻かれ続けるというわけだ。
 
 どうやらこの「どんでん返しが過剰」というところで本書の評価が二分されているように感じる。「ここまでやるとは」と拍手喝采を送る人がいる一方で、二階堂黎人(をはじめとする何人かの人々)が「どんでん返しの難易度が低い」と文句をつけていたのが印象深い。
 
 確かに本格ミステリ的なフェアなどんでん返しを期待する向きには面白くないんじゃないかと思う。本格マニアの二階堂が前述のような発言をしたのはわからなくもない。おそらく「フェア精神にのっとった伏線の張ってあるどんでん返しが良質などんでん返しである」という主義なんじゃないだろうか。その限りでは本書におけるどんでん返しはフェアな伏線などほとんどない。私も端正な伏線によって導かれるどんでん返しは大好きなので二階堂の言いたいことはある程度わかる。
 
 しかし私は、何もそのような観点からのみで評価しなくとも、本書は立派に面白いと思うのである。以下、その理由を書こうと思う。
 
 本書の特筆すべき点、それは視点人物エミール・デラコートとその息子マックス・デラコートの関係性である。ともに「偉大なるデラコート」たる奇術の深奥を極めた人物であるのに、作中においては片やほいほい騙される「観客」、片や誰も真意を理解できない怪物的「演者」とはっきりと対極に位置づけされている。エミールが全く身体を動かせず内面の語りだけで描写される人物であるのに対して、マックスは次々と不可思議な奇術を繰り出すがその内面は一切語られない。これはかなり意図的に分けられているように感じられる。
 
 エミールもかつては第一線に活躍したマジシャン、しかもマックスの奇術の師匠である。にも関わらず易々とマックスに騙されてしまうのはどのようなわけだろうか。この理由を考えたとき本書は私に格段の輝きを見せた。
 
 エミールとマックスがともに「偉大なるデラコート」の通り名を称していることからもわかるとおり、二人は分身体なのである*1。しかし精神だけが生き続けるエミールにとって、己の持つ技術だけを外部に具現化したマックスは理解しがたい怪物にしか見えない。つまりこの小説は、例え自身の分身でさえも外部から見た場合に怪物にしか見えないという事実を描いた恐怖小説なんじゃないかと私は考えた。はたまたドッペルゲンガーものの亜種なのかもしれない。
 
 ならば、どんでん返しが伏線など何もなく唐突なのもマイナスにはならないのである。なぜなら「理不尽な理解不能性」がテーマなのだから。
 
 というわけでかなり面白い。タイトルにカーやロースンを期待した人には退屈かもしれないが、本年度の収穫の一つであるといっても良いと思う。

*1:この説に拠ると本書のエミールが××するラストシーンは興味深い。