依存/西澤保彦

依存 (幻冬舎文庫)

依存 (幻冬舎文庫)

 
 私は匠千暁シリーズには奥歯にものが挟まったような何とも言えない感情を持っていた。それはいったい何だろうか? ということで現時点でのシリーズ長編最後の作品まで読んでみた。
 
 匠千暁シリーズの顕著な特徴として主に挙げられるのは以下の点だと思う。
 1…妄想スレスレの推理による多重解決推理
 2…大学生達が織り成す、昏い情念をも露出させた青春小説的側面
 1・2のどちらにおいても、他の作家がなかなかやらない領域まで踏み込む事による過剰性を帯び、それがシリーズを特徴付けている。
 
 当然、これらの特徴を純化させるための装置としての舞台設定、およびキャラクター配置はなされている。タック・タカチ・ボアン・ウサコの妄想大学生4人組とその他多くのゲストキャラは度々酒宴を開催し、酒気、そしてあの大学生特有の関係性を持ってして推理の「場」を作り上げる。成程、この舞台設定なくして一連の作品群における推理の放埓さ(蓋然性の詩学と呼ぶ人もいる)や、その推理が導くえげつない真相もできなかったであろう。
 
 ゆえに、私はこのシリーズをブランドの『暗闇の薔薇』のようなサロン小説だと思っている。ボアン自らが認めるように、作中度々開かれる酒宴は主役4人組を中心としたサロンであり、そこでは(当事者が絡むゆえの多少なりともの切実感はあったとしても)推理は大人の秘めたる遊戯として認識され、人々の密かな愉しみとなっている。
 
 私はこのシリーズを読み進むにつれて、そこに違和感をもってしまった。で、冒頭に戻るが不気味さを感じてしまったのである。

 ※今回は『彼女が死んだ夜』、『仔羊たちの聖夜』、『スコッチ・ゲーム』の真相にも若干抵触するので、これらの作品を読み終わった人のみ下記のネタバレ感想部分を読んでください。
 
 以下ネタバレ
 →すでに何作か読んでしまった人はおわかりだと思うが、このシリーズは毎回サロンの内側にいる人物(『彼女〜』のハコちゃんとか『仔羊』のカップルとか)が陰湿な小悪党だったという真相に着地する。その身内犯罪率の高さたるや『金田一少年の事件簿』の不動高校のようである。対して、主役4人組はそれらの陰湿さとは無縁であるとばかりに彼らを糾弾し、その一方で俗世を隔絶せんとばかりに純粋理性(すなわち推理)によって潔癖な関係性を結ぼうとする。
 ここで注目すべきは、何度犯罪者を出し、その度にやるせない嫌な思いをしたところでサロンが解体されない点だ。主役4人は相変わらず中心部に超越者然として腰を据えており、周辺部(多くがボアンやタカチのシンパ)だけが代替可能なものとして交代していく。このサロンはまるで自己再生を繰り返す生き物のようだ。これは見様によっては非常にグロテスクである。
 そして、サロンの周辺部にいる人々は自己の内面の卑俗さを告白し、去っていく。しかし、主役4人(特にタックとタカチ)だけは事件の過程で(タカチは『スコッチ・ゲーム』で、タックは『依存』で)明かされる自らの醜悪な部分をなかば逆説的に肯定し、より関係性を純化させていく。
 そこには宗教的な荘厳さと気持ち悪さが混濁された何かが確実にあり、それはサロンの規範を超えた何かだ。主役4人は選ばれたようでいて、逆に取り残されたような印象すら受ける。何だろうか、この落ちつかない感じは。

 
 しかし、そんな疑問も本書の山場を読んでストンと落ちる。
 それは本書ラスト近くで語り手ウサコが仲間に入りこむために卑小な手を使ったことを恥じているのに対し、タカチはタックと出会ったことを運命だったと全肯定する対比構造。
 痛みを伴う自ら(と愛する他者)の絶対的全肯定。これがシリーズのテーマなんじゃないだろうか。
 
 私は作中の主人公達のような生き方を、正直に告白するなら少し不気味に思ってしまったことは否定しない。が、その志向性は理解できなくもなく、達成しよう(そしてある程度達成された)と奮闘する西澤の姿勢は大いに買える。
 
 実は西澤の超能力系作品よりも癖っ気の強いシリーズであり、万人受けとはちょっと違うと思うが、『依存』・『黒の貴婦人』あたりのテンションはかなり高く、好むと好まざるとに関わらずそれは楽しい。
 とりあえず最新作出たら読みたい。