運命の8分休符/連城三城彦


すげー面白かった。連城の代表作としてはあまり表に出てこない作品だが、かなり上位に来ると思う。


連城を読むたびに本格ミステリとは何なのかということを考える。いや、連城だけではなくチェスタトンやカーを読むときにすら思う。
これらの作家の共通項はただ一つ。「説明力=妥当性」の欠乏だ。


これはどういうことか。
簡単に説明すると、男Aが女Bに告白しふられるとする。「なぜふったのか」という事にに説明力を持たせた解答を用意するなら、


・BはAを嫌い(もしくは愛を受け入れるほど好きではない)だった。
が妥当であり、恐らく97%くらいがこのパターンだろう。


しかし残りの3%が曲者だ。
・BはAが好きだがつきあえない。(例えば「Bが余命1年でAに辛い思いをさせないため」というパターンなど)


妥当性のある、一般的な解釈とは前者。
しかし、連城のミステリはほとんどが後者。チェスタトンの逆説なども後者。
100%にあって3%くらいしかケースのない「稀なケース」を謎に対する説明として提出される。「小説を読む」という行為にあってはあまり違和感を感じないかもしれないが、現実問題にあてはめるとほとんどの人が信じない。


さて、前述に「妥当性の欠乏」とあったが、これは正しいニュアンスではない。「異様な妥当性」、これこそが連城作品の魔力だ。
読者があくまで小説=フィクションに立脚しているという前提を活かしきる。
「異様なもの」を力技で読者に納得させるという意味ではパワー作家なのかもしれない。