ふつうの学校2/蘇部健一


蘇部のジュブナイル第2弾。個人的には前作が最高にツボだったので楽しみだった。


今回も不健全なノリは健在。前作以上の馬鹿馬鹿しさで読者を楽しませる。
おそらく、作者/読者の意図の三重構造がこの面白さを醸し出しているのではないかと思う。
作者は「子供の心に健全であることを訴えるジュブナイル」に反発し、このような不健全なものを上梓した。ましてやミステリファンというものの大抵は、クレヨン王国よりもポプラ社の乱歩の陰惨さに隠れた愉しみを見出しているような子供時代を送っているので、「子供から毒を取り上げてはいけない」という蘇部の主張は決して子供を馬鹿にしたものではなく、むしろ真摯だと思う。
しかし、悲しいかなこの作品を読んでいるのは子供ではなくメフィスト賞のおっかけをしている大人なのだ。「ノベルスであんな馬鹿なことした蘇部が、子供に真摯に毒を送ってるよ」とかいいながら笑ってこの作品を読む。このすれ違いがなんともおかしい。
当然蘇部は大人の読者の目も意識していると思う。大人じゃなきゃ苦笑できないようなギャグが随所にちりばめられているからだ。
また、大人の読者も嘲笑で笑っているのではない(と思いたい)。


さて、肝心の出来なのだがかなり良い。もちろん反対の意見を唱えるものもいると思うが、子供の頃に「子供の心に健全であることを訴えるジュブナイル」を読まされた私には、なんだか蘇部の試みが心地よい。


以下ネタバレ反転。
トリックスターである稲妻先生とそれを看破する六本木君という図式は完全に確立されたと思う。しかし、両者は対立する概念ではなく、不健全な(=一般的な)子供の側に立っているという点で親和的だ。良い子供の前にしかあらわれないピーターパンやトトロをネガポジ反転させたようなものであると思えば良い。探偵も犯人も健全な世界の住人ではなく、日陰の産物であるという事を再確認させる。
また、今作のキモは構成の上手さで、主人公が女の子と仲良くなっていく4話までの展開が、ブラジャー盗難事件で一気に崩壊する。ハートウォーミングな展開は全てこのブラジャー盗難事件のスリルを描きたかったためなんじゃないだろうかと思えるくらいだ。伏線もばっちりそれまでの4話で張られている。


・補遺


蘇部健一『ふつうの学校』シリーズの感想を述べる人のなかで、必ずいるのが「全然ふつうじゃねえよっ!」というツッコミだ。一見的を得ているように見える。しかし、この感想に非常に違和感を覚えた。


確かに教師がロリコンだったり、生徒から賭博で金を巻き上げたり、かわいい女子の座席をトレードしたり、天才で美形の探偵が出てくる。これらは滅多にないことである。
しかし、これらを「ふつう」ではないとした場合、どのような学校が「ふつう」なのであろうか。これは意見が2通りに別れると思う。

1…『さわやか3組』のような学校をモデルケースとした場合。
2…読者の実体験に基づいた学校生活をモデルケースとした場合。


1の世界はあきらかに『ふつうの学校』とは真逆の概念である。ロリコンも天才も出てこない(税金で作ってんだから当たり前か)。これを「ふつう」とした場合に『ふつうの学校』が「ふつう」ではないというツッコミが来るのは当然であろう。しかし、社会通念の「普通」とは実社会における「一般的なもの」であり、『さわやか3組』は到底その枠に入らない。なぜなら、実社会にはAVを見る小学生などはざらにいて、『さわやか3組』にはそんな小学生が存在しないからである。


2の世界は実は『ふつうの学校』と本質は近しいと思う。なぜなら、2の世界にもAVを見る小学生は存在するし、駄目人間の教師も存在するし、美形で頭の良い少年も存在する。席替えでかわいい女子の隣を狙うなどということも当然存在する。
では、なぜ2の世界を「ふつう」とし、『ふつうの学校』を「ふつう」としないのか。それは『ふつうの学校』が小説ゆえのデフォルメ化されているからだ。しかし、起こった事件などは別にしても登場人物の人間性は極めて「ありうる」もので、これを「ふつう」としないのはおかしい。


これはメディアの欺瞞で、「普通」ではないむしろ理想的なものが「ふつう」としてインプットされてしまったのだといえる。先日のアメリカ・アジア諸国の若者意識調査などを見ると、実社会を生きる人間の「普通」とメディアが描く「ふつう」がいかに乖離しているかわかるだろう。


『ふつうの学校』は社会には駄目人間も多くいるという「普通」なことを描いた作品である。


注:本文中で「普通」と「ふつう」を使い分けた。前者は実社会経験に基づくもの、後者はメディアが作り上げた観念に基づくものである。