麦酒の家の冒険/西澤保彦

麦酒の家の冒険 (講談社文庫)

麦酒の家の冒険 (講談社文庫)


「タック&タカチ」シリーズの二作目。安楽椅子探偵ものの長編。


唯一無二の解答を提出すること。これが西澤ミステリーの底流にあるものだと思っている。
西澤初期の十八番となっているSFミステリを思い返すと、これは明らかだ。SF設定といういわば「何でもあり」的な設定を用いることは、一見本格ミステリ(特にパズラー)にとって致命傷となるように見える。パズラーとは「何でもあり」とは対極の「この解答以外にありえない」を導き出すことに腐心する形式であるからだ。
しかし、これはあくまで「一見」である。西澤の狙いはもっと違うところにある。「事実は小説より奇なり」という格言があるとおり、現実世界とはロジック以外の要素からも混成されているもので、当然「偶然」も起こるし、登場人物は「最善策をとらない」こともままある。
しかし、SF設定のもとでは世界の法則は固定される。ありうる事だけが起こり、ありえない事は排除される。西澤は混沌にSF設定という秩序を設置する事により、より事象の因果関係を強め、パズラーが導くべき解答を絶対たるものへと変えようとしたのである。


そして、『麦酒の家の冒険』はSF設定こそ使われていないが、西澤のスタンスが最も色濃くでた作品の一つであろう。あとがきに詳しく述べられているが、『九マイルは遠すぎる』の欠点が短篇形式であることを看破し、ただでさえ執拗なロジックを用いるかの名作をさらに綿密なものにしようとしたからである。


…とここまでは誰でも指摘できる話。ここからが本題。「あらゆる可能性を排除して導かれた唯一絶対の解決」を目指した作品であるはずなのに、この作品に出てくる仮説の胡散臭さは拭えないという印象をうけた。常につきまとうのは「論拠のなさ」・「登場人物の不在」であり、この点を完全にカバーしているとは言い難い。
例えば、この作品では事件当事者を便宜的に符牒を用いながら登場させている。これは状況設定以外に一般化された人間であり、「都合の良いように動く人形」である。そしてこの符牒を成立さえているのは推測であり、その推測でできた符牒的人物がこういう事件を起こしたという帰納的推理でしかないからだ。そしてこのロジックの不備に西澤が自覚的ですらあるのは、登場人物の口を借りて語られていることから明らかだ。


では何故西澤は安楽椅子探偵の致命的弱点を知りながら、このような体裁で作品を書くことを選んだのだろうか。論理の体現にもっと相応しい舞台(例えばクイーン)はあったのではないだろうか。


おそらくこれは安楽椅子探偵ものの魅力とは「唯一絶対の解決に収束」していくことではないからだ。安楽椅子探偵ものの真の魅力は「ディスカッションすること自体の面白さ」にある。手段が目的化されているのだ。


バークリー『毒入りチョコレート事件』を例にあげるならば、この作品が名作だといわれている所以は「唯一絶対のロジック展開」だからではなく「ページ数の大半をディスカッションに割いている」からなのだと思う。この作品が「素晴らしいロジック展開」を志向しているとしたら、事件パートをもう少し増やして論証につながるような手がかりをもっとばらまくだろうし、ラストのチタウィックの解決はあんなにド派出なものじゃなくてもっと実際的かつ無理のないものをもってくるはず。この作品のミソは「唯一絶対の解決に近づいていく神々しさ」ではなく、「全ての仮説が冗談みたいなものであり、唯一絶対の解決なんて人間が軽々しく近づけるものじゃないのよ」という皮肉だ。


もちろん、安楽椅子探偵という形式はロジックをおざなりにするものではない。しかし、唯一絶対の解決を志向する形式としては弱い。ただ、ディスカッションだけが物語を紡いでいくという特殊な状況がなんとも魅力的なのである。議論を重ねて真実に近づいていくという名目の裏に、「実際問題として全部妄想の域をでないよね」というお為ごかし的な自覚がある。しかし、「語る」・「推し量る」・「検討する」といった作業の中毒性も同時に存在する。つまり、ロジックフェチが擬似的なロジックを楽しもうという遊戯なのである。そうすると、『毒チョコ』も『隅の老人』も『退職刑事』も『タック&タカチ』も探偵たちはみな公的捜査機関に属していなかったり、酒の肴に推理していることの説明がつく。唯一絶対の解決に近づくという使命感・職業的倫理感を持たないからである。

そうすると西澤がわざわざこの作品にレギュラー探偵を起用した理由もおぼろげに見えてくる。「議論されていることそのものを楽しむ」のが作品の狙いであるならば、「真相に深い関わりを持たない」と証明されているシリーズキャラの方が適任であるからだ。