お楽しみの埋葬/エドマンド・クリスピン


1948年発表。


主人公フェン教授の選挙活動で知られている作品だが、パズラーとしても良く出来ている。『消えた玩具屋』のようなファースや奇怪な謎で盛り上げるだけ盛り上げておいて解決はしょぼいという肩透かし感はない。最初は選挙パートが印象的過ぎて、事件が地味だと思っていたら、最後に綺麗な伏線の回収に昇華するので尻上がりに面白くなる作品だと思う。
不満に思ったのは、登場人物個別のエピソードが散漫過ぎて、小説として物足らなさを感じたところか。タクシードライバーと地主のロマンスにしろ、妖精を信じる牧師にしろ数ページ触れられただけで、パズルの1ピースの域を出ていないので、全編を覆うクリスピン特有のファースがなければ正直読むのが辛かったかもしれない。

選挙パートはあまりにも有名だし実際面白いのだが、さほど必然性も脈絡もない。探偵小説として核となるお話があって、それを彩る枝葉として機能しているから面白く感じるのであって、単体だけ取り出すとなんかの悪い冗談かと思ってしまう。しかし、この選挙パートがなければ面白くも何ともない小説になってしまうのは事実で、精緻だが小説的彩りに欠けるパズルパートと必然性はないが面白みは十分な選挙パートがほどよいバランスで均衡を保っているからこの作品は傑作なのだと思う。ファースを大胆なミスディレクションに使ったりしたカーと比べると、少し使い方で見劣りがしてしまうかも。


以下ネタバレ
さて、文庫版解説でも触れられているが、この作品の最大の謎はタイトルの由来である。『お楽しみの埋葬』とは何を指しているのか。ここで若干考察してみる。
この作品で死んだのは主に3人と1匹である。
ランバート婦人(犯人による殺害)
・ブッシー警部(犯人による殺害)
・ウルフ警察署長(犯人。逃亡中に事故)
・ゴクツブシの豚(犯人の逃亡中に事故)
原題「Buried for Pleasure」は直訳で「楽しみのために埋められた」であり、ここで出てくる疑問は「誰の、どのような楽しみなのか?」、「誰の死か?」である。
ここで推したいのは「読者の終盤のカーチェイスの楽しみ」という解釈だ。この作品では『消えた玩具屋』に負けず劣らずの爆笑犯人追跡シーンが用意されている。卑劣な犯人がコテンパンにされ、死んでしまうのだ。
つまり、『(読者のカタルシスとなるような)お楽しみの(犯人の)埋葬』あたりがしっくりくるのではなかろうか。