ケルベロス第五の首/ジーン・ウルフ

ケルベロス第五の首 (未来の文学)

ケルベロス第五の首 (未来の文学)


国書刊行会。<未来の文学>シリーズ第1回。1972年。
もはや各方面で祭りが起きている今年度最大の問題作。

ここでは細部の考証はほとんどしない。
勝手に広報部からリンクが張られている各種検証サイトでも見てください。発売直後にはすでに大勢の人間が膨大な検証を行ってしまったので、今更出る幕も無いでしょう。単なる重複になるだろうし。


というわけで、以下の記述は私自身の読みだが、他人と重複する部分は省く。よって恣意性に満ち満ちたものであることをご了解いただきたい。説得力ありそうなのはほとんど誰かに語られてしまったのよ。


この作品のテーマは「アイデンティティ」だと柳下は述べている。これには異論を挟む余地はない。しかし、私はこのテーマの裏に常に「不能」の影がちらつくのを感じた。
例えばアボは足が悪いし、道具を上手く使えない。V・R・Tは白痴のふりをさせられる。娼館の主人がわざわざクローンの研究をする(外の女に子供を産ませた事はあるが、不能でないとはどこにも書いていない。むしろ人口受精の可能性が高い)。「ケイブ・セネム」ではマーシュホモ説が唱えられているがむしろ不能かと思った(←オーバーリーディング)。確かに女は買っていたけどさ。
つまり、「アイデンティティの獲得」と「不能」が2項対立になっている。全編にただよう閉塞感はこの「不能」によってもたらされているのではないかと思った。


最後に個人的見解(以下ネタバレ)
私は第3部のマーシュは5号の変身したものであると思っている。この連作がフラクタルの関係にあるとするなら、第2部の東風と砂歩き、第3部のV・R・Tとマーシュ同様に、第1部のラストでも「なりかわり」が行われていると見るのが妥当だ。ヴェール理論により5号がサント・アンヌのアボの末裔であってもおかしくはないと示唆されているので可能性はある。つまりマーシュ⇔V・R・T⇔5号となっているわけ。これで第3部のマーシュが「ジーニーおばさん」とつぶやくの(303P)も氷解。つまり、マーシュの記憶を持っているV・R・Tの記憶を持った5号の記述かと。最後の捨てられたテープは5号の変身が記録されてたってことで。え?マーシュ(に変身したV・R・T)?やつは逆に5号にでもなったんじゃない?1部のラストはやつの記述。これで無問題。


・補遺


本当に思いつきを書きとめておくだけ。

第2部「ある物語」の「待ち受ける七人の乙女」ってプレアデス星団のことだったりするんですか?
日本では昴として有名だが、もともとは「統ばる」(=一つに集合する)から転じたもので、星々が1つの集合を成しているという意味。

これは「影の子」が7なる1の存在(←エターナルチャンピオン風)である事と対応しているような気もして面白い。もっと言えば第1部も5なる1の存在だし。

そうすると「待ち受ける七人の乙女」を見つけた「砂歩き」はオリオンに対応するわけで、その宿敵である大蠍は「東風」といったところか。

世界各地にプレアデス星団関連の神話・伝承は残っている(当然アボリジニ版も存在する)が、共通するのは7人姉妹の1人は下界の若者とどこかへ行き(合意だったり誘拐だったり)、逃げおおせた6人が天へ帰るというもの。そのためプレアデス星団の中で暗い星が1つだけあるという話。

「7−1」はウルフの中篇「アメリカの七夜」を彷彿とさせるし、「理由の明かされない欠片」というモチーフは好んで用いるらしいので、この妙な符合が意識からまとわりついて離れない。

こんな妄想も引き出すなんて素敵な作品ね、ケルベロス

追記:ちなみにプレアデスの異母姉妹であるヒアデスの名を冠したヒアデス星団はV字型(Vがどういう意味を持つかは読んだ人には自明だよね)であったり、ヒアデスに連なる神話として「兄が殺される」や「雨降りを司る」(=沼人?)というものがあり、これも単なる偶然の符合として片付けられない(個人的には)。