誰でもない男の裁判/A・H・Z・カー

誰でもない男の裁判 (晶文社ミステリ)

誰でもない男の裁判 (晶文社ミステリ)


晶文社。2004年。かつてのEQMM常連作家の短篇集が世界で初めて日本で編まれた。ベスト・オブ・ベスト的な短篇集なので、1篇1篇感想を書いていく。


「黒い子猫」(1956年)…飼い猫と愛娘という愛情の対象として優劣をつけてしまいがちな二者が並べられているがこれは面白い。普通の人間ならば娘>猫という価値観を持って当たり前なのだが、主人公は牧師であって彼が日常的に大衆に説いているのは命の平等さであるという事実を考えると、この普通の価値観すら揺らいでしまう。そこへ持ってきて、主人公は猫の死を隠蔽してしまうことから猫をさして愛しておらず、また娘にも愛情を注いでいなかったという事実を認識させられる。つまり、主人公の価値観は二重に揺らされているわけで、この構成は面白い。加えて、日常のミクロな事件を扱ってはいるが、猫の名前が「ちびくろサンボ」なので猫が黒人を意味し、娘(=白人)と対応している事を考えると、もっとマクロな視点での「愛」をテーマにしていることも推測される。少ない枚数ながら、心に訴えるものがある作品。


「虎よ! 虎よ!」(1952年)…詩人探偵と犯人の共鳴というとチェスタトン『詩人と狂人たち』が思い出される。『詩人と狂人たち』が理性の共鳴であるならば、この作品は感情の共鳴であるので、むしろ人間に偏在する獣性を描いたニコラス・ブレイクの諸作品の方が近いかも。舞台がロシア料理店だったり、主人公が原子爆弾にインスピレーションを得ているあたり、事件自体が人間の憎悪の連鎖としての戦争の比喩になっていると思う。これも「黒い子猫」と同じく、ミクロな事件を扱いながら、もっと大きなテーマに迫るという面白い趣向。トリックはまあ妥当なんじゃないでしょうか。


「誰でもない男の裁判」(1950年)…ポーストのアブナー伯父シリーズをさらにワンツイストした快作。解説でも触れられているが、アメリカの宗教風土だからこそ成立する作品。「黒い子猫」の主人公はプロテスタントで、この作品の主人公はカソリックなのだが、著者は宗派の違いを超越したもっと大きな真理を書きたかったので統一性を持たせなかったのではないかと思っている。


「猫探し」(1954年)…翻訳に負う部分も少なからずあるのだが、「シャーロック・ホームズの真似事をする私立探偵」の語りという、本格とハードボイルドの両方の魅力を持った好篇。謎解きや、ドラマ、オチもしっかりまとめられており、収録作品中もっともコンパクト。また、得意の<テーマ系>にあらず、カーの作風の広さも窺い知れる。


「市庁舎の殺人」(1951年)…上記でカーが得意なのは<テーマ系>と書いた。「黒い子猫」、「虎よ! 虎よ!」、「誰でもない男の裁判」の諸傑作や、この「市庁舎の殺人」が普通のミステリと一線を画すのはそのテーマ性ゆえである。山口雅也は『ミステリー倶楽部へ行こう』でこう指摘している。


>カーの作品に接していると、この作家が短編ミステリーの名手にありがちな皮肉屋ではなくて、もっと生真面目なモラリストであることがわかってきます。それゆえ≪異色作家短編集≫シリーズに入れるには、地味すぎるような気がしてしまうのです。(中略)カーの特徴を一つ挙げておくなら、それは、ミステリーがあまり取り上げないようなテーマを探し出してきて、それを愚直なまでにまっこうから取り組もうとする姿勢――とでもいっておきましょうか。(講談社文庫版125Pより)


カーの作品では、登場人物が心を揺さぶる出来事に直面するという設定が多く用いられている。この「市庁舎の殺人」も例に漏れず、ラストの主人公と犯人の対決は、殺人と刑罰を巡るスリリングな攻防となっている。そこでは公権力と利権―公利と私利というテーマが浮かび上がり、これが舞台を市庁舎にした由縁かと思う。カー自身が政治・経済に携わったということもあり、主人公が持つ意志の強さはカーの人間としての理念であるかのように思える。
そして、カーは作中で提出されたテーマに対して、ストイックな解答を提示している。このストイックさこそカーの作家性であり、それが良く解かる一篇ということで「市庁舎の殺人」は面白い。本格としてもスクエアに作りこまれているし。


「ジメルマンのソース」(1957年、初出は1934年)…非本格。世間で言う異色作家短編にもっとも近い。ここでは貴族の矜持が描かれ、そこでもカーのストイックさがちらほら見え隠れしている。作家の料理描写に冴えがなければ魅力が成り立ちにくいプロットなのだが、カーの筆力は十分に満たしている。美味い/不味いをちゃんと書けるのってすごいわね。


「ティモシー・マークルの選択」(1969年)…この作品でも、主人公は結末において、ある重大な倫理の問題に頭を悩ませる。他の作品では、問題に対して十分に立ち向かえるだけの意思の強さを持った大人が主人公であったのだが、ティモシー・マークルは高校生であり、社会的地位や意思決定力において未熟であるために、苦渋を強いられる点がミソ。ヴァリエーションとしては面白く、結構自己批評的な作家だったのかしらんと思わせる。


「姓名判断殺人事件」(1965年)…この作品だけ妙に色気があって浮いている。テーマ性は無いが、逆に加わったロマンス性で魅せる点で作風の幅広さを感じた。要素の一つである名霊術の面白さが翻訳では今一つ伝わりにくいのが難点。けど、原文で読んだ人は割合すぐにネタに気付くのでしょうね。ニューヨークの出版事情も風刺として取りこまれており、それだけでも楽しい。


これで全部終わり。
補足として、EQMMについて少し言及しておく。『黄金の13/現代篇』(早川文庫)を参照していただくとわかるが、EQMMは1945年から毎年コンテストを開催し、その年の最高作を選出していた。世界6大陸から総計1万3千もの短編が応募され、その頂点に輝いた(1席を獲得した)13篇がご存知「黄金の13」である。A・H・Z・カーは「黒い子猫」で56年次の第1席を獲得。「虎よ! 虎よ!」や「誰でもない男の裁判」、「市庁舎の殺人」でも2席を獲得している。
このコンテストの性質として、どうも同じ作家が何回も第1席を獲得するのを回避しているらしい事は、ラインナップを見ればわかる。優れた作家を一人でも多く輩出したいという主催者の心意気だろう。つまり、このルールさえなければ、カーの連覇という可能性もあったわけで、やはり凄い作家だと思った。
また、ラインナップを見ると、選考委員の好みがおぼろげに見えてくる。どうもカーのストイックな作家性がクイーンの気に入ったんじゃないかということが推測できる。


マクロイ、ストリブリングの短編集が実現され、エリン、フラナガン、ヴィカーズが復刊される空前のEQMMブーム。お次はエイブラム・デビッドスンですか。EQMMが恐ろしいハイクオリティ雑誌であることが解かった。