赤い館の秘密/A・A・ミルン

赤い館の秘密 (創元推理文庫 (116-1))

赤い館の秘密 (創元推理文庫 (116-1))


1921年。恥ずかしながら未読でございました。


探偵小説こうあるべき、と言って劇作家ミルンがミステリ界へ殴り込みをかけた1冊。序文に付されたミルンの理想とは随分と無茶な条件ばかりで、「探偵も犯人も素人にしやがれ」なんていうのもある。しかし、そのような古臭さ―ミルンの探偵小説へ対する個人的偏愛、頑固さばかりが目に付く作品であるにも関わらず心地よい傑作である。


さて、この本がどう面白いかという事を書こうかと思いましたが、先日の『ミステリーズ』2004年8月号で杉江松恋氏がこの作品の面白さをとても的確に論じており、私にこれ以上のものは書けないので「この本のどこが面白いの?」という方はそちらを参照ください。


それでもあえて語らせてもらうなら、この作品は何となく変なんですね。洋館で殺人事件が起こったのに、容疑者となるべき逗留客達は全員警察の許可を得て自宅に帰ってしまい、その後最期まで現われないとか、トリックの手がかりがラスト30ページくらいで唐突に出てきたり。警察も少し現場検証しただけでほとんど捜査らしい捜査しないし。じゃあ、何が書かれているかというと探偵と助手の悪戯ばかり。


ミルンは探偵と助手の捜査や細やかな心の動きを追うことに夢中になりすぎて他のわずらわしい事を一切忘れているようにすら思える。創元推理文庫版解説の中島河太郎は本書のギリンガム探偵が持つ独特の風格を「(ミルン自身から)自然に滲み出た」ものと評しているが、それもそのはず。だってこの作品、探偵の事ばっか書かれてるんだもん。滲み出ない方がおかしい。


じゃあ何でこんな奇妙な事態になったのかというと、ミルンは序文でちゃんと述べていた。「探偵も犯人も素人にしやがれ」と。


つまりミルンが書きたかったのは探偵の素人化=読者との同化。読者は探偵の考えは全部知っているし、探偵が何をしていたかも全部知っているという書き方の敷衍がこれを可能にしている。全編にただよう不思議な高揚感はこれ故。だって、読者も探偵と一緒に作品世界内を冒険しているのだからそりゃ高揚しますよ。
だから、ジュブナイル小説を読んでいた子供時代を思い出す。そんな小説。