生首に聞いてみろ/法月綸太郎

生首に聞いてみろ

生首に聞いてみろ


この小説を読んでネットワーク・モデルが頭に思い浮かんだ。
モデルを作中の事件に見立てて考えるならば、ノード(ポイント)は少なくとも8以上なので、無向グラフならば28、有向グラフならば56の辺が最低でも成立する。


本格ミステリーの醍醐味とは最初はこれらの辺を瞬時に全て知覚することができないところにあるのだと思った。なぜなら人間は、グラフ上にただ表れる辺に、先入観や禁忌といったフィルターをかけてしまう。
それは我々が近親相姦や不倫、果ては年の差カップルといった辺をデフォルトで認知できない社会に生きているからである。
とは言いながら、連日お昼のワイドショーが騒いでいるように、禁忌として扱いながらも追求する面も社会は持っているわけで、この二重性が本格ミステリーを成り立たせている。


さて、作品の感想に移る。『生首に聞いてみろ』に限らず、法月綸太郎の小説はこれらの「見えない」辺を全て見ようという試みから成り立っている。有り得る可能性を全て吟味するのが論理だと言わんばかりの鬼気迫る法月の信念である。
そして本作において、一番凄いところは多数のノードを有しながらグラフが有向である点を存分に書ききったところだと思った。特にエピローグに顕著で、このシーンを読んだ時にはブラボーと(心の中で)叫ばずにいられなかった。近年稀にみる凄いエピローグである。


作中で辺が一つずつ「見える」ようになっていき、最終的にほぼ全ての辺が「見える」ようになり、同時にネットワーク・モデルが明かされた時のカタルシス本格ミステリーの醍醐味である。そして法月はこれにたいして『生首に聞いてみろ』ではほぼ完璧に答えている。


ただ、頭の良すぎる人にはこの小説は面白くもなんともないんだろうなと思った。最初からモデルを点と線だけで処理できる人にとって、全てが予想範囲のことなので、別に驚きもしない。
また、この手の作品を読みなれた人にとっても同様。だから、法月は作品を発表すればするほど自身の首を絞める事になっているのも事実である。綾辻なんかはネタの尺度や雰囲気といった本格ミステリの別の醍醐味で勝負する人だからこういうジレンマには陥らないと思うし。


とはいえ、数学的処理能力が低い私には面白い作品だった。