月が昇るとき/グラディス・ミッチェル
- 作者: グラディス・ミッチェル,好野理恵
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 2004/09/30
- メディア: 単行本
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誤解を恐れずにいうならば、この作品は傑作である。オールタイムベストに名を連ねるような派出さはないが、読者を十分に楽しませることができる。
しかし、グラディス・ミッチェルの作家性、『月が昇るとき』の作品性を理解したうえでなら、という注意書きが必要だと思う。
本書の肝は叙述の特殊さにあるといっても過言ではない。
先ず1つに、13歳の少年の視点によって語られるという点。
登下校、食事、就寝といった少年の生活時間を規律する描写によって、「昼と夜は地続きのものではない」という前提で語られる。
ゆえに、昼を少年の日常とするならば、人々が寝静まり月が明かりを灯す夜はある種の幻想として捉えられる。
切り裂き事件(夜の出来事)も血や死体のイメージを払拭された幻想の中の出来事となってしまう。
では現実→幻想という転機で話が盛り上がるかといったらそうでもなく、あくまでも淡々とオフビートに処理されていく。これも少年らしい物事に対する無頓着さとでも言ったらいいのだろうか。
この「現実離れした幻想に包まれた事件」を「現実と価値を同列に見なして」語るという二重性が、壮大なミスディレクションとして機能している。
幻想的であるがゆえに、靄がかかったかのような事件の本質。オフビートであるがゆえに、謎の中心に対して向かわない意識。
すでに読了した人ならばわかるだろうが、この作品の真相は驚くほど単純極まりない。にも関わらず、物語終盤でブラッドリー婦人のメモを見るまでは読者は煙に巻かれたような状況に置かれっぱなしなのである。物語のラストで読者は気付く。少年視点でなかったら、もっと早くに真相に到達していたかもしれないと。
だから謎解きがあまりにも地味だからといって、本書を貶すのは不当である。この作品は不思議な叙述による壮大なミスディレクションと溢れる叙情によって傑作足りえている。
最後に個人的見解(以下ネタバレ)
→犯人のコッカートン婦人が狂気に見まわれてしまった説明は最後までなされない。私の当てずっぽうだが、閉経期の情緒不安定によるものではないかと思った。だから殺人が一定の周期を経ているというわけ。タイトルも暗示的である。