陽気な容疑者たち/天藤真


1963年。乱歩賞最終候補にして処女長編。


土屋隆夫の『天狗の面』、あるいは多岐川恭の『変人島風物誌』あたりと比較してもよい田舎ミステリである。


横溝正史を筆頭にして、田舎を舞台とした本格ミステリは多々ある。


先ずその理由の1つとして、本格ミステリが不可能犯罪の土壌を求めたというのが上げられる。田舎の人々=アメリカナイズされた合理思考を持たない人々の中でしか、密室だの幽霊だの呪いだのは沸き起こらないという考え。都会でもやろうと思えば出来ないことはないだろうが、細かなテクニックやストーリーの盛り上がりを盛り込むならこちらの方がやりやすい。都筑道夫がなめくじ長屋シリーズで江戸時代を舞台にしたのと同じ理由。


しかし、『陽気な容疑者たち』は三重密室を扱ってはいるものの、そんな呪いだの幽霊だのといった空気は一切流れない。


タイトルにもあるように、『陽気な容疑者たち』の登場人物は殺人事件を立身出世の契機とばかりに明るく考えてしまう、非常に現代的でありクールな思考の持ち主ばかりである。旧家の長に長年にわたる嗜虐を強いられても、陰湿な怨念などはほとんど持っていない。ある者は家を出奔し、ある者はストライキを起こす。


この人々の現代的な思考と結末のギャップがこの作品の最大のポイントだと思う。
解決部で明かされる真相は、天藤お得意の「弱者への優しい眼差し」で救済に溢れている。
そこでは村を掌握する旧家の存在などにはもはや囚われない人々の生き方が描かれており、村人達(=現代的思考の持ち主)は旧家の長の死という救済をこれ以上無いほど謳歌している。
この事に私はグロテスクさを感じてしまう。

なぜか。
結論を言うとこの作品におけるムラ社会は崩壊しなかった。家長や体制(=旧態然としたもの)が現代的な価値観・主義に変わっただけで、人々の「優しい関係」は継続されている。

トリックとかなり密接に関わってくるので、物の挟まった言い方しか出来ないが、この作品のムラ社会は「現代的な思考」という面と「その割りには強いムラ的な連帯感」という相反する2側面を持っている。
この作品ではラストで後者、すなわちムラはムラのままだったというとある事実が明かされるのだが、このムラの2側面が背反せず同時に保たれていることをユートピアとして書いてしまう事がグロテスクさを生んでいる。


ゆえに読後のすがすがしさなど有るはずもない。作中の人々の「優しい関係」は現代社会のインターネットなどにも通ずるグロテスクさをも秘めている。
だから、私はこの作品に始まる天藤作品を十把一からげに心温まるユーモアミステリと呼びたくない。優しさも過ぎるとグロテスクさを催してしまうからだ。


実は『水の迷宮』を読んだ時にもこういう感想を抱いていた。個人差はあるんでしょうけど、天藤に関して皆が皆「優しい」、「ユーモア溢れる」といった賛辞を抱くのは違うと思う。