スタイルズ荘の怪事件/アガサ・クリスティー

スタイルズ荘の怪事件 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

スタイルズ荘の怪事件 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)


クリスティー文庫。1920年。


10年ぶりくらいに再読してみた。細部もプロットもほとんど忘れ去っていたので初読と同じように楽しめた。しかし、新しく発見したこの作品の良さについて語ろうと思う。


さて、この作品はいわゆる「カントリーハウス」ものであり、エルキュール・ポアロのデビュー作だ。なんで田舎の上流階級の屋敷が舞台なのか、なんで探偵が亡命ベルギー人なのかといったことに、初読時の私は特に思いを馳せなかった。
ところが、再読して驚嘆することとなる。以下、驚嘆した箇所の引用。


「ミス・ハワードは愚かしさや堕落とは無縁だ。健全な肉体と精神を持った典型的なイギリス人です。良識の塊ですよ」(P205)


ユダヤ人の血が少しくらい混じっているのは悪いことじゃないわ。そのほうが――(中略)平凡なイギリス人の無神経な愚かしさを取り繕ってくれるわ」(P258)


前者はポアロのミス・ハワードに対する、後者はメアリがジョンに向かって放った言葉である。どちらも「イギリス人らしい」と言われているのに、評価は真逆だ。
作品が発表されたとき、第一次世界大戦によって大衆の価値観は大きく揺れていた。今まで信じてきたもの―古き良きイギリスが根底から覆されてしまったのである。上記の「イギリス人らしさ」に関する矛盾した記述はその象徴であろう。


作中のカントリーハウス=戦争と無縁な上流階級の屋敷は「古き良きイギリス」が残存している稀有な空間であった。そこでは「古き良きイギリス」が守られる一方で、外部から「そうではない悪しきイギリス」が混入し、両者は責めぎあっている。
この責めぎあいこそがこの作品の本格ミステリとしての肝である。誰が善人で誰が悪人かを巡る議論と、それを掻き回す目まぐるしいミスディレクション。そして、犯人の奸計はこの「イギリス人らしさ」という印象を巧妙に利用したものであった。ゆえに、他愛のないトリックが時代性によって映えるのである。


ならば、この「イギリス人らしさ」を巡る闘争と犯人の奸計を冷静に観察できるのは、同じイギリス人のヘイスティングスジャップ警部ではなく、外部の人間―ベルギー人ポアロしかいない。また、ヘイスティングスがラストで途方に暮れてしまうシーンは、同属イギリス人の本性を暴けなかったことを象徴している。こんな些細な、しかし物語に色を添えている恋愛シーンまでもが、テーマを補強しているのである。恐るべし、クリスティー


時代に浮かびあがった大衆意識をトリックに還元してしまう手法、必然的かつ優雅さも持ち合わせる舞台設定、これまた必然的に要請されながら個性も打ち出した探偵。これらの全てが噛み合わさった超絶的探偵小説。それが『スタイルズ荘の怪事件』である。この作品の良さを知れただけでも10年の月日は無駄ではなかった。