春期限定いちごタルト事件/米澤穂信
- 作者: 米澤穂信
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2004/12/18
- メディア: 文庫
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はたしてこの作品集を北村薫や加納朋子らに代表される「日常の謎」系と系列づけていいのだろうか*1。ふと読んでいて疑問に捕らわれた。
確かに作中で提出される「なぜ女の子のポシェットは消えたのか」「なぜ意味不明な絵が描かれたのか」といった謎はスケールはミクロであり、日常に埋没したものであり、先達らと何ら変わりがないように思える。
しかし、やはり同じく創元から輩出された北村薫や加納朋子と並べてしまうのはどうしても違和感があるのである。
その違和感は、本作の一篇「おいしいココアの作り方」と北村薫『空飛ぶ馬』の一篇「砂糖合戦」を比較した場合、明確となる。どちらも日常的な飲み物を巡る謎を扱ったものであり、謎のスケールが極小という意味では同程度。
例えば、北村の「砂糖〜」では気楽な気持ちで謎に挑んだ主人公は、やがて砂糖壷に秘められたささやかな、しかし陰湿な悪意に触れてしまいへこまされてしまう。
対して、米澤の「おいしい〜」ではできる限り自らの探偵能力を発揮したくない主人公が、やむを得ずココアの容器を巡る謎を解いてしまうが、べつに「砂糖〜」のような刺々しい結末など待ちうけていない。何とも意表を突いた、それでいて少し間の抜けた結末である。
純粋な主人公が初めて触れる悪意(=世間といってもよい)を描いたのが北村なら、世間(自身を含む)は悪意に満ちていると思いこんでいる主人公が大したことのない事件に触れるのが米澤の本作。
唯一「狐狼の心」が少しばかり悪意に満ちているが、北村ほどいやらしく書いてはいない。犯人が普段は善人の仮面を被っているわけではなく、最初から理解不能な悪人−別世界の住人として書かれているために、「裏切られるような」心痛に襲われないのである。
つまり、北村と米澤の作品において、探偵と謎の関係は真逆なのだ。
北村の作品は旧来の探偵(御手洗潔とか)の延長線上にある。キュリオシティを行動原理とする探偵は事件(ひいては世界)に対して能動的である。
一方、『春期〜』の主人公小鳩はキュリオシティに嫌悪感を感じ、消極的に事件に接する極めて受身的な存在だ。
ここに「能動的に働かなければ自分と切り離されてしまう世界」と「能動的で無くても切り離されることのない世界との運命的な関係性」という対照が見られる。
つまり、主人公小鳩は、世界=物語の呪縛に囚われているといえる。
例えば、小鳩の小市民(=自らを包む大きな物語を持たない人々)を目指す理由が、「過去に人を傷つけた」という大きな物語に根ざしている。物語を背負う事を拒絶するのに物語を持ち出してしまっているので、物語の呪縛から逃れられない。
ここらへんの感覚は西尾維新とかに近しい。探偵能力をスティグマであると思いながらも、凡庸であることの難しさからついつい大きな物語の方へと逃避してしまう。これって一種の逃避文学?
と、長々と書いてしまった。実際、読んでいる途中はこのような感想を抱いた。しかし、最後まで読了したら、考えを改めることとなった。
確かに前述したような問題は主人公小鳩の独白によって始終つきまとう。
しかし、実際に作中にそれらを巡る重苦しい雰囲気は流れていない。小鳩の悩みはいわば青臭い自意識の産物であり、これに重さを見出すことはできないのである。
現に、小鳩はその時の気分でほいほい探偵役を引き受けてしまっている。自らがとる深刻なポーズに対して自覚的であり、自嘲的であるとすらうかがえる。ラストの「一朝一夕には上手くはいかない」(P245)というつぶやきには、絶望は微塵も感じられず、楽観的な印象を受ける。
深刻さをポーズとして取りながら、相対化することによって軽さを醸しているのだ。能天気さを厭い、深刻に考えるフリをしてしまうが、結局能天気な生き方に戻ってきてしまうみたいな。
だから、西尾維新らとは少し間を外したノリが再現されており、このご時世にあってはそれは貴重ですらある。この間の外し方は、存在の重さをある程度放擲したものであるので、読んでいて非常に胃がもたれない。よって楽しく読むことができた。