ウサギの乱/霞流一

ウサギの乱 (講談社ノベルス)

ウサギの乱 (講談社ノベルス)


 霞の作品の特徴の一つに、溢れ出るサブカル薀蓄が挙げられる。
 本書も例外ではなく、古事記*1やらNASA隠蔽工作やらが各々の事件から溢れ出ている。
 「天岩戸を見立てた密室殺人」や「メン・イン・ブラックと見違う犯人像」などが該当する。


 これらは、事件をおどろおどろしくする機能を持っているかと言われれば、はっきり言って微妙である。あまりにも胡散臭すぎる&チープ過ぎるので、作中で提示されても読者は歓喜したり戦慄したりはしない。
 例えば昔の島田荘司あたりが同じネタを調理すれば見事なロマンチシズムに昇華するはずなのにである。
 人によっては軽いジョークと受け取られ冷めた笑いを喚起する程度のものだし、人によっては蛇足・寄り道と罵られてしまうかもしれない。


 じゃあ必要無いのに、霞が単なるページ稼ぎのために悪あがきしているのか。
 霞流一を嫌いな読者にはそのような了解がありそうだ。
 そこで、断じてそんな事はないと提唱したい。
 霞のサブカル薀蓄は、前述したとおりの胡散臭さ&チープさを持って初めて機能する本格ミステリの高度な技法である。


 確かに「天岩戸を見立てた密室殺人」や「メン・イン・ブラックと見違う犯人像」にはケレン味は無い。目の当たりにした読者は誇大妄想気味のプロットに冷めてしまうだろう。
 しかし、逆にこう考えることはできないだろうか。
 頭がクールダウンしたからこそ、純粋に謎解きを楽しむ余裕ができたと。
 「天岩戸を見立てた密室殺人」が出てきたとして、これにロマンチシズムを感じて余韻に浸る読者などそうそうはおらず、本格ファンならすぐに「なぜ見立てなければならなかったか」を考え始めるだろう。
 つまり、読者が捨象しやすい環境を整えるのに一役買っているわけ。霞作品における薀蓄の空々しさはクイーン初期作品の無味乾燥さに通じるものがあるとすら思う。


 実際、霞作品はクイーンから吸収したと思しき論理性、精密性に優れた作品が多い。本書の犯人断定のロジックもしかり。派手な密室トリックに目が行きがちだが、前座の防犯タイマーと自転車を巡る推理もなかなか目をみはる。これだってロマンチシズムに巧妙に隠されているわけではなく、多くの読者が解決編に至っても記憶に残っている類の伏線だ。
 これらの力作パズラーを立ち止まって吟味しないのはもったいない。
 だから胡散臭い薀蓄で読者が立ち止まりやすくしている。


 『ウサギの乱』はいつもよりギャグは少なめの作品である。しかし、薀蓄は全く殺がれていない。なぜなら、霞作品にとって薀蓄は読者がパズラーに挑むためのサービスだから*2
 かなり好意的に偏向した解釈だと思うけど、少なくとも私はそうでした。

*1:古事記サブカルの範囲かというツッコミはとりあえず置いておいて。

*2:この言い方は少々不適切か。作者が意図したかどうかは問題ではなく、そういう効果がある事が重要。