少年トレチア/津原泰水

少年トレチア (集英社文庫)

少年トレチア (集英社文庫)


 このフォークロアを題材にした小説の舞台となるのは「緋沼サテライト」という東京都近郊のニュータウン。随分と意味ありげな名前である。サテライトとはすなわち衛星。惑星の周りを周回する天体のことである。どうも、このニュータウンの名前にこの作品が持つ構造を明らかにするヒントがありそうだ。

 
 文庫版388Pの地の文で蠣崎旺児(を騙る津原?)は次の様に述懐している。
 「わたしは客体化されなければならなかった。」
 もちろん、蠣崎自身に限らず、この小説の登場人物・動物は全て客体として記述されている。


 もちろん、客体化されて語られているのは人物に限らない。「少年トレチア」自体とそれを巡る事件の数々も客体化されている。ニューズ番組のインタビュー、雑誌の投稿欄、デジタルカメラ、自主製作映画といった客体化のアイテムが縦横無尽に張り巡らされる。これらのアイテムや登場人物達の「あやふやになる記憶」というフィルターは「少年トレチア」の正体をぼかし、それが明言されることを回避する。客体化された語り(=フォークロア)によってますます事件の核心は改竄され掴めなくなってしまう。


 そして、文庫版385Pからの展開。それまでの語りはいわば「少年トレチア」が放つ光を間接的に映していたにすぎない。そこでそれらを打ち払うために主体化された(と宣言される)語りがいざ事件の核心へと踏み込もうとした瞬間に起こるとある事件。これによって、「少年トレチア」の正体を見極めることがますます困難とされる。


 しかし、「少年トレチア」の正体が判然としない最中でも、不思議と読者に煩悶は残らない。最初は例の出来事によるカタルシスゆえかと思った。しかし、どうも違うみたいだ。そこで、自分なりに考えてみた。以下ネタバレしながら意見を述べる。


 →萩尾望都の解説にも暗示されているように、一連の事件の起点を確定する事は難しい。語りが不安定過ぎるからだ(崇や晟といったトレチアを経験したと思しい人物すら覚束ない語りである)。
 前段で私は煩悶とした読後感を持たなかったと述べた。それは、作中に明確に記述されていなくても「少年トレチア」事件の核心がなんとなく理解できたということなんじゃないだろうか。
 では、私がなんとなく掴んだ核心とはなんだろうか。それは「核心が存在しない」ことが核心という奇妙な真相だ。
 「少年トレチア」にまつわる事件の数々は具体的には何にも起因していない。これを抽象的に言いかえると、虚無(ブランク)が全ての起因だったのだと思う。核心が真空であることの求心力とも言えるかもしれない。
(ネタバレここまで)


 思えば、最初に書いた「緋沼サテライト」とは暗示的な名前だ。自身の公転には主体となる惑星が必要である。その主体とは何かということを突き詰めると、ネタバレ箇所に書いたようなこととなるある種の皮肉。
 この主客の問題はなにも本作に限らず、津原の他の作品にも顔を出している。徹底的な客体化を可能とする津原の様々な文体によって始めてこのテーマは浮き立つ。


 語りと構造の幸福な結婚を実現した小説。フォークロアという題材も上手く消化されている。このテーマに興味がある人は一度手に取ったらいいんじゃないだろうか。