魔法/クリストファー・プリースト
- 作者: クリストファープリースト,Christopher Priest,古沢嘉通
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2005/01/01
- メディア: 文庫
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なぜアレを描くのに、恋愛を軸にしなければならなかったのか。以下ネタに抵触しつつ、考えてみようと思う。
(ネタバレここから)→「視覚的関心のヒエラルキー」*1というテーマは、推理小説ならば巨人チェスタトンがすでに用いている。彼の短編「見えない人」において、社会階級が「視覚的関心のヒエラルキー」を規定している。
『魔法』も「視覚的関心のヒエラルキー」を扱っているが、この小説ではそれは社会階級によって規定されず、別の要因によって決定されている。作中、スーザンはリチャードに不可視性を説明する際にこう例えている。
「男は子供を目にするまえに、女に気がつき、それから他の男に気がつくの」(P355)
そこでは性的な関心がヒエラルキーの上位に位置することが示唆されるが、それだけではないとスーザンは一蹴する。スーザンは次いで以下のように言う。
「あなたがあたしを見ているのは、あたしがあなたに見てほしいと思っているからなの。」(P357)
つまり、不可視性は視る主体にのみ依存するものではなく、客体の自我にも大きく左右される。ナイオールによると不可視性とは「アイデンティティの喪失」(P309)。すなわち、不可視性とは客体の意思によっても自由自在となるものであり、これにも大きく依存しているのである。
このことを敷衍すると、不可視性を打ち破るには以下の2つの条件が必要なのだろうと思う。まず、視る主体が大きな興味を持っていること。そして、視られる客体に視てほしいという欲求があること。そこで、相互に関心を持ち合う行為―恋愛がクローズアップされてくる。
不可視状態こそがノーマル*2という不可視人にとって、ノーマルを打ち破る行為―恋愛はアブノーマルな行為だ。つまり「視えない」ことが魔法なのではなくて、本来不可視なものが「視える」ことが魔法なのである。ならば、本作をファンタジーたらしめているのは、相手が「視える」非日常――恋愛物語が展開する点にあるといえる。恋愛=ファンタジーというわけだ。
それまでどちらかといえば一方向的に取り扱われてきた「視覚的関心のヒエラルキー」に、相互的関心という踏み込んだ議論を持ちこみ、さらにそこから恋愛とは魔法のようであるという普遍的命題に収束する手口。これは凄い。
(ネタバレここまで)
というわけで非常に楽しかった読書だった。傑作。