最後の審判の巨匠/レオ・ペルッツ

最後の審判の巨匠 (晶文社ミステリ)

最後の審判の巨匠 (晶文社ミステリ)


 1923年。本邦初訳。
 
 「オチはこうなんですよ」と結末で書かれているにも関わらず、それが真であるか疑わざるをえないという人を食ったような作品。作者が探偵小説を知悉していようが、無自覚であろうがそんなことは関係なく、読者は混迷を極める。
 とりあえず以下の感想では、オチを文面通りに受け取った場合で進めていく。異論のある方も多いだろうが*1、私はこう読んだ。

 以下ネタバレ。


 →密室殺人、アリバイ調査、現場の手掛かりなど、本書の第一部を読んだ人間は探偵小説を想起してしまう。そこはかとなくちりばめられた意匠はそうとしか思えず、探偵小説に慣れ親しんだ読者なら必ず陥ってしまう陥穽だろう。しかし、訳者あとがきによると、ペルッツはそういった読者を激しく叱責し、「これは探偵小説を志向していない」と明言している。
 
 なぜ本作の第一部が探偵小説に見えてしまうのか。これは重要な問題であると思う。作者がまったく意識していないと言っているにも関わらず、多くの読者は幻惑されてしまったからである。
 
 そもそも探偵小説とは何なのか。何を持って定義とするのか。これにはたくさんの論者がおり、この場で決定してしまうことは難しいが、筆者はその中の一つに「細部(ディティール)を問う物語」と言えるものが存在していると思う。集合住宅の、デパートの、カントリーハウスのあらゆる局面で人間の痕跡が細部に渡って問われる物語こそが探偵小説の一端であると。
 
 『最後の審判の巨匠』の第一部とは、まさしくそういった細部への眼差しが片鱗として表れた小説だと思った。
 語り手ヨッツァは「これは記憶に頼っているので時系列とかは思い間違いしているかも」と前置きしており、実際作中のどこまでが記憶(と称される妄想)をたよりに書かれたものかは判断できない。編者のあとがきを信じるなら、冒頭の一部を除いてほとんどがヨッツァの妄想であるとのこと。
 しかし「現実かどうか」という問題は「細部まで書きこまれているかどうか」とは別の問題である。
 第一部のほぼ全編は単なる妄想であるがゆえに、逆に狂人の執念が細部を緻密に、鮮やかにしている(ように読者は信じるしかない)。銃弾の問題、電話の問題など事件を彩る様々な細部は探偵小説的に粘着質な視線で解体されていく。
 つまり、以下のことが言えそうだ。「探偵小説とは細部を問う物語だ」、「妄想とは細部を作り込んでいく作業だ」、ゆえに「探偵小説とは完成度に比例して妄想的(=フィクション的)になっていく」、「妄想も極まれば探偵小説のように見えてしまう」。

 すなわち『最後の審判の巨匠』の第一部は狂人の妄想という主題を描く過程で、偶然的に探偵小説とリンクしてしまったのではないだろうか。
 『最後の審判の巨匠』は「妄想」と「細部」の関係という重要な示唆を与えた怪作である。ちなみに「妄想」側から「探偵小説」側にコンタクトしてしまったのが本作ならば、「探偵小説」側から「妄想」側に近づいたのはカーのアレやアレだと言えるだろう。カーもまたどうでもいいような細部に執念的に拘わり、様々なトリックを開発した妄想の人だった。


 というわけで結構さまざまなことを考えさせられた読書だった。隅々まで再読すればまた違う感想を抱くかもしれない。

*1:訳者の読みとは大きく異なるが、そこはそれ。解説における訳者の読みは素晴らしいものだと思う。