扉は閉ざされたまま/石持浅海

扉は閉ざされたまま (ノン・ノベル)

扉は閉ざされたまま (ノン・ノベル)


 石持浅海はずるい作家である。読者に与える印象を操作しようという限りにおいて、かなりギリギリの手練手管を使ってみせるからだ。


 例えば、石持作品の探偵と犯人の息も詰まるような知能の攻防において、読者は凄いと思ってしまう。
 これはなぜかというと答えは簡単である。登場人物たちは口を揃えて「あの人(探偵のこと)は頭が良すぎる」「昔から切れ者だった」と探偵に最大限の賛辞を送りまくる*1ので、読者は「探偵役の人間は非常に頭が良い」とインプリンティングされてしまうからである。
 ゆえに「頭が良い人が言う事だから正しいのだろう」というコンセンサスが形成され、探偵役の人生哲学やロジックに凄みが出てしまうのである。あらかじめ「探偵は凄い」とレトリックで擦りこまれているわけだから、どんなロジックが出てきても感嘆してしまう一種の詐術だ*2。そして、事件の舞台は探偵を神とする宗教的と言ってさえよいトランス空間に包まれてしまう。


 無論、これは作家としてのテクニックなので非難される類のものではない。レトリックが先か、ロジックが先かなんて厳密に定義のしようがないし。
 しかし、前々作『水の迷宮』では石持のテクニックはあきらかに暴走していた。収束部における探偵=神の託宣が常軌を逸脱し始めたからである。とても素直に「なんて頭が良く清冽な考え方なんだ」と首肯できる類のものではなかった。宗教に対して信者が疑惑を持ち始めた瞬間だった。


 だが、最新作『扉は閉ざされたまま』においてその収束部は、『水の迷宮』に比べたらいくらか気持ち悪さが緩和されている。この程度の逸脱ならまったく許容範囲内である。おそらく探偵がコミュニティを主導した『水の迷宮』と違い、今回は極小な関係性の中で完結したからだろう。これくらいなら、いくら法や倫理に抵触しようと許せなくもない。


 あと、本作で初の叙述形式をとっているが、犯人の内面を書くことによって随分と石持の作家性が見えてきた。頭の良い人/悪い人という図式の中で、頭の良い人(すなわち探偵や犯人)は選民として振るまい、大義をなす使命感を持ち、同じく頭の良い人と共感しようとする。そして大衆の教化。凡愚にとっての遥か雲上で行われるコミュニケーションが持つ神秘性。だからこその宗教的な雰囲気。


 その宗教的雰囲気が生理的に駄目な読者はいるかと思われる。『扉は閉ざされたまま』はラストで俗っぽい方向性に流れかけるので、あまりそれは前面に押し出されていない。だからこそ『水の迷宮』がアウトだった私でも、それなりに楽しく読めたわけですが。

*1:個人的にはヴァン・ドゥーゼンの肩書きと同じくらい程度が凄いと思っている。

*2:別に石持作品のロジックが実は全て破綻をきたしていると責めているわけではない。むしろ、ロジカルな方向性は強い。ただし、中にはどう考えても「頭が良い」と言ってしまうには過大評価されすぎているものもあると思う。