クドリャフカの順番/米澤穂信

クドリャフカの順番―「十文字」事件

クドリャフカの順番―「十文字」事件


 田舎町の祝祭、リレーする語り手、事件。ガルシア・マルケスじゃん*1。本作はマジック・リアリズムとは言わずとも、何とも奇妙な読感が通底する。


 本作の登場人物達は祭りを愉しんでいる。ただし、それは単に「光溢れる」、「熱気」と片付けられるものではなく、一抹の翳りをも内包している。本編のお遊びギミック(残り部数カウントダウンとか)が象徴するように、物語は多分にお気楽・ゲーム的な仮面を被るが、その表現ほどお気楽でもなく、登場人物達は奇妙に捻れていく。


 例えば、「十文字事件」に対する一般の参加生徒達の反応。彼らは窃盗事件に対して、文化祭実行委員のやらせを疑りかねないほど陽気に事件を接収する。被害者含め彼らにとっては、事件などイベントと同等にしか扱われないものであり、「何故こんなことをするのか」は彼方に追いやられ、「誰がやったのか」だけがクローズアップされる。標的になりうる部のブースに大挙して人が押し寄せ、「犯行の現場を直接押さえる」という「暴力」によって事件に終止符を打とうとする群集の姿はさながら狂騒であり、自身が大した被害にあったわけでもないのに、ただ何となく犯人を探し、犯人を見つけたあとのことなど考えない。


 一方の犯人の動機は個人的な問題に帰結する。何もこの舞台、この方法でやらなくてもいいとすら言えるほど、犯人の目的は個人的だ。祭りの高揚感に誘われた*2とはいえ、健全とは言い難い。また、哀切に落とし込めないこともないのに、どこかカラっとしていて呆けている。犯人と犯人の「敵」たるものの関係も確固とせず、浮遊している。

 
 祝祭という場において「個対全」どころか、「個対個」すら崩壊した。祝祭=「全」にあっては全ての関係性がうやむやになってしまうこの感覚。これが冒頭に書いた奇妙な感覚の正体だろうか。


 というわけでガルシア・マルケス好きにお薦め…とは言えないか。面白いっちゃ面白いけど。

*1:「予告」されているしね。

*2:ここは勝手な推測だけども。