スクランブル/若竹七海

スクランブル (集英社文庫)

スクランブル (集英社文庫)


 本書を読んで、「推理とは何か」ということを考えてしまった。辞書的には「論理によって推し量ること」とでもしておけばよいのだろうが、どうもそれだけではなさそうだ。


 思うに、「推理」には二つの側面がある。
 一つは水も漏らさぬ堅密性。みんな*1が大好きな完璧なロジックによる収束である。クイーンに代表されるパズラーは「推理」のこの側面が核であり、推理小説の面白さの核となっている。なにもパズラーに限らず多くの推理小説はこの伏線の論理的回収作業を多かれ少なかれ伴っているといっても過言ではない。
 
 さて、こうした観点から見た場合、『スクランブル』は面白いか否か。
以下ネタバレ。
 →すでに読み終わった方々にはご存知の通り、『スクランブル』は女子高の文芸部面々の視点&推理(&物語)のリレーといった構成になっている。各々が冒頭の殺人事件に挑み、敗北して次の走者にバトンタッチすることで物語は進行する。
 ここでの面々の推理結果は、おそらく本書の先祖の一つであろう『毒入りチョコレート事件』よろしく散々な結果である。(作中の1980年時点では)飛鳥を除いて全滅。推理を外した対価として、みな人前で恥をかくはめになってしまう。
←ネタバレここまで。
 つまり『スクランブル』中盤の推理合戦は堅密性から大きくかけ離れているといってもよい。
  
 ならば『スクランブル』が推理小説として駄作かというとそんなことは全然なく、むしろ上等な部類に入る。
 なぜかというなら、『スクランブル』の面白さを屋台骨として支えているものの正体こそが「推理」のもう一つの側面だからだ。
 それは、「いいかげんさ」である。

 夏見を始めとする文芸部の面々は、起こった殺人事件に対して使命感や切迫感などみじんも持たず、自ら趣味とする読書の延長線上で事件を接収する。
 よって「推理」は堅密性(のようなもの)は持ちつつも、読書やゴシップと同一平面で語られ、「いいかげんさ」が前面に押しでてしまう。
 
 ここで注意してほしいのは、『スクランブル』でこそ顕著だが、このような「推理」の「いいかげんさ」は本作に特有のものと言っているわけではないということ。むしろ、全ての推理小説にこの特性は敷衍されると私は思っている。

 
 推理とは(1)失われた時間・空間・および動作に漸近した思考を、(2)説明体系に組みなおすことである。
 あくまでも「漸近」に留まるし、ましてや「語られる」ものなのである。堅密性を求めつつも、必ずそれに対する反発――いいかげんさを含んでしまうというアンビバレンツな行為、それが推理である。

 ならば今度は逆に、以上の論からエラリー・クイーンが「どうせ完璧な正確さなんて再現しえないんでしょ」といって謗られるかといえば、それはノーである。推理が正確であるかどうか、あるいは放埓であるかどうかが問題なのではない。正確さ(あるいは放埓さ)へ向く作者の意思、つまり志向性こそが推理小説の属性を決定している。
 その限りでは、永遠に辿り付く事のない真理の地平へ歩みを止めないクイーンの姿勢は評価されるべきだし、逆にいいかげんであることを自覚してとめどなく語りつづける若竹の姿勢も評価されるべきだ。


 『スクランブル』は他の推理小説が神聖視する「推理」行為がゴシップと同列に陳列されるさまを描いた小説である。恋愛や輝ける汗といったものと疎遠な暗黒系青春小説が持つゴシップ・オタク的妄想力と推理行為の暗黒面が巧く調和している。
 当然、何も捻くれた上述のような読み方をせずとも見るべき点はあり、代表作の一つにいれてもいいんじゃないだろうか。

*1:本格ミステリオタクな人々