黒い天使/コーネル・ウールリッチ

黒い天使 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

黒い天使 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 
 ミステリ史上において、巡礼スタイルのプロットをとる作品など多々ある。聞きこみ→新事実判明→新たな訪問対象発覚→聞きこみというのは、素人玄人問わず足を使う事を信条とする探偵たちの常套であり、むしろ捜査行為というのは多かれ少なかれ自然とこのようなプロットになってしまうのかもしれない。
 
 それでも、コーネル・ウールリッチ*1が描く巡礼は独特の色を帯び、それをしてウールリッチをオンリーワンたらしめる。
 それは都会、夜、詩情溢れる言い回しなどといったウールリッチを彩る常套句のみにとどまらない、「ウールリッチにとって他者とは何か」といった重要なテーマを垣間見せるからだと言うことができる。
 
 ウールリッチの作品群は良くも悪くも「独立した短編を連続で読ませるような」プロットと言われることが多く、本書や『黒衣の花嫁』などを読めばそれは一目瞭然だと思われる。「本質的に短編作家」とさえ言われ、シーンや情景の刹那を切りとるのが巧い反面、物語の主軸となるべき一本の線が弱いなどといった批判も聞こえてくる。
 
 しかし、この「短編数珠繋ぎ」ともいえるプロットにこそ、「ウールリッチにとっての他者とは何か」という主題は身を潜めている。
 
 通常の巡礼形式型ミステリーでは、主人公は人と会うことによって関係者たちの関係性を束ね、事件全体の構図が明らかになるといったパターンが多い。このような点(人間)と点が線(関係性)で結ばれ、線が集まり一つの絵になるといった趣向はロスマクなどに代表される。
 このスタイルの顕著な特徴は、「点は結ばれないでいることを許されない」という意志が働いているところだろう。人間は必ず何らかの関係性で結ばれているという狂気めいた確信が、普通の人間には到底信じられないような“線”までもを暴きたて、それが意外性や絵を完成させたカタルシスに直結する*2
 
 しかし、ウールリッチはこれに対し、真逆の態度を貫くのである。
 ウールリッチ作品における巡礼で明かされるのは、「人間は大して繋がっていない」という諦念めいた確信だ。事件のキーマンと推測される人物を訪ねども訪ねども、事件との繋がり(=被害者との強い関係性)などは存在しなかったことばかりが明らかになっていき、主人公は途方に暮れてしまう。
 「被害者はなぜ殺されたのか」、「被害者/犯人は何を思っていたのか」、「被害者はどんな人生を歩んできたのか」といった人間に対する興味は極めて薄く、作品の9割を読み進めても事件の構図は何もわからず、振り出しと大差ないといったことはままある。
 また、巡礼を重ねる主人公からして訪問対象に対する興味は薄い。犯人でありそうなら相手の内面を執拗に追求する反面、犯人でないと解かった瞬間には相手の存在を頭の片隅から追い出し、別の対象に向かってしまう。『黒い天使』の主人公アルバータもその一人で、生まれ持った美貌で相手に近づき、用が無くなれば姿を消してしまういわば「幻の女」である。このビジネスライクな関係性は娼婦と客の関係性のようですらある。ゆえに、各エピソードは読者にとって尾を引かず、短編集のような割り切りを見せてしまう。
 
 ここで印象的なのは、この他者の内面に対する興味の薄さは、そのまま自己の内面への追求も避けているという点だろう。アルバータはどのような人生を歩んできたか、どのような考えを持って生きてきたのか、最愛の夫カークをどれほど愛し、どれほど印象深い思い出があるのかといった描写は、物語の整合性を成立させるための必要最低限しか描出されず、アルバータが専ら考えているのは「誰が犯人なのか」ということだけである。
 そもそも、アルバータが巡礼に旅立つ理由となった「夫への愛」。これが驚くほど読者に対して説明されない。夫カークは浮気はするわ、真犯人に嵌められるわ、警察に捕まり喚くわでとても愛すべき対象に見えず、読者によってはアルバータが夫に愛を捧げる理由はピンとこないだろう。
 
 しかし、ここにこそウールリッチにおける「他者とは何か」という切実な問題が潜んでいる。
 思うに、ウールリッチにとっての他者とは「交歓の対象」ではない。相手の意志や過去などは必要ないのである。「ただ存在だけしてくれていればよい」といった最低限の望みこそがウールリッチの作家性なのだ。ウールリッチにとっての他者とは、あたかも夜の闇に浮かぶ常夜灯であり、“点”である。存在さえ確認できればよい。決して交歓する必要も無い。何とも刹那的である。
 ならば、アルバータにとってのカークもそういうことだ。夫という存在はいてくれるだけでよい。愛など深く交す必要はないのだから。「ただいてくれさえいればよい」といった最低限の望みすら絶たれたアルバータが悲壮な決意に駆られたのも納得できる。
 
 さて、非常に長くなってしまったが締めである。上述を踏まえると、『黒い天使』のラストは「他者とは何か」という主題を大きく揺るがす。氏の代表作『幻の女』や『黒衣の花嫁』が触れなかった一線を大きく踏み越えたのが本書であり、その意味では異色中の異色とも言える。以下恒例のネタバレ反転。
 
犯人ラッドの狂気めいた壮絶な感情の渦に直面したアルバータは、夫を含む他のどの男でも入りこめない心の奥に侵入されてしまう。
 そして、(原文にあたっていないので、訳文による解釈で非常にもうしわけないのだが)終幕において夫カークは「この人」、ラッドは「あの人」として対置される。「この人」とはいつも身近で存在を確認できる人、「あの人」とは存在を確認できないが心に住みついてしまった人のことだ。つまり、アルバータと犯人ラッドはウールリッチ作品が踏み越えなかった一線を越えてしまったのだ。「黒い天使」とは目的のためなら手段を選ばない非情の天使という意味だけでなく、貞節のさらに向こうにある越えてはいけない線を越えてしまい、安住の楽園を追放された天使という意味も持っている。

 
 このアルバータ被爆。これによって『黒い天使』は私の中でウールリッチの最高傑作であるばかりか、忘れがたい一作になってしまった。本当に傑作ですよ。

*1:当然、アイリッシュ名義の作品も含む。

*2:ここらへんは以前にも『生首に聞いてみろ』の感想で書いたので興味のある方はどうぞ。