オックスフォード連続殺人/ギジェルモ・マルティネス

オックスフォード連続殺人 (扶桑社ミステリー)

オックスフォード連続殺人 (扶桑社ミステリー)

 
 いやー面白かった。
 「アルゼンチン発、驚愕の超論理ミステリー」*1なんて怪しげな宣伝文句が嫌でもボルヘスを期待させ、それはちょっと期待しすぎかとドキドキしながら読んだが、文句が出ないほど楽しませてもらった。
 
 正直、解説の千街晶之が指摘する(というか誰が読んでも突っ込むだろう)アレ(解説のP282の16行目〜P283の1行目、ネタバレ該当箇所なので注意)にばかり目先が行ってしまい、凡作評価を与えられかねない可能性はある。が、私は以下の観点からこの作品を絶対的に指示したい。

 以下ネタバレ。
 
 →発端のイーグルトン夫人殺しを別にして、その後の事件全てが偶然の出来事だったという真相は、直感に頼るにせよ何にせよおそらくほとんどの読者が辿りつける真相だろう。「あまりにも不可能な殺人」はその過剰性ゆえ本当に不可能だったという皮肉だ。当然、たったこれだけの真相ならすでに偉大な巨頭は存在し、確かに評価に値しないだろう。
 事件の犯人(というより演出者?)セルダム教授にとって、非常に都合よく死体が転がってくる展開を「運命」とするならば、それを操り意味を持たせてしまったセルダムの行為は「運命」をねじ伏せる「作為」に他ならない。この「運命」と「作為」の対比は言いかえるなら「神」と「人間」の対比である。
 しかし、『オックスフォード連続殺人』はさらに捻る。この作品のユニークネスはセルダムが犯人であると同時に、探偵役も買って出てしまうというところである。「追うもの」と「追われるもの」は「同一」であり、セルダムはさながら「尾を喰らう蛇」のようだ。
 私はここで「あれ?」と思った。「同一」・「尾を喰らう蛇」といえば、事件の中で唯一セルダムが関与せず、偶然に表れた最初の記号「○(円)」のことだ。
 つまりセルダムが選んだ背徳の道は、最初の事件で偶然にも「神」によって暗示=支配されているということはできないだろうか。
 「神」を、「運命」を操ったかに見えたセルダムは、結局運命の輪の中にいたままであるとも読めてしまうのだ。
 「運命」が先か、「作為」が先か。バークリー『毒入りチョコレート事件』が終焉の決定不可能性を示唆した探偵小説ならば、本書は発端の決定不可能性を示唆した探偵小説と言えなくもない。
←ネタバレここまで。
 
 というわけで、非常に見え透いた誤解を受けやすい小説だとは思うし、それ抜きにしてもどうも黙殺されているっぽいが、興味のある人はまず読んでみると良いと思う。

*1:帯より。