太臓もて王サーガ/大亜門

太臓もて王サーガ 1 (1)

太臓もて王サーガ 1 (1)

 
 今回は週間少年ジャンプ連載のギャグ漫画。異世界の王子(異性にもてない)が付き人や人間界で出会った不良と一緒に、嫁探しのため毎回騒動を起こすという話。
 
 今までずっと小説の感想を扱ってきたのに、なぜ少年漫画誌のギャグ漫画の感想なのかというと答えは簡単。コミックス第一巻に一篇だけ物凄い超弩級本格ミステリ短篇が存在するからである。
 
 タイトルは第7章「学園7不思議」。
 学校で起こるトイレの花子さん騒動の真相を、主人公たちが悪ノリで調査に出向くという話である。主人公たちはそこで学校に伝わる七不思議を目の当たりにするが…。
 
 実はこの七不思議の不可思議な現象、犯人がいる。その犯人がある目的のためにあるトリックを用いてを演出しているのだが、その内容−−特に恐怖の十三階段がすごい。ネタばれになるので詳細は書かないが、島田荘司に匹敵する奇想トリックと連城三紀彦も唖然とする驚愕の動機なのだ。他にも犯人断定の(アホな)ロジックがあったりと作者の恐ろしいほどの本格ミステリセンスを感じさせる一篇なのである。
 
 学園七不思議というお約束や、この漫画の持つギャグ漫画としての雰囲気がなければ成立しえない大ネタの連続。近年のミステリ漫画最大の収穫といってもおかしくないかもしれない。『金田一少年の事件簿』でもこんなにクレイジーなエピソードは無かったと思う。
 
 ギャグ漫画であり、しかも他の看板漫画に比べればまだまだ知名度の低い作品であるが、ミステリ史からみすみす消え去ってしまうのはあまりにもったいない快作である。ゆえに今回拙文で推薦する次第となった。興味のある人は是非手にとってみていただきたい。

奇術師の密室/リチャード・マシスン

奇術師の密室 (扶桑社ミステリー)

奇術師の密室 (扶桑社ミステリー)

 長々と更新サボってしまった。怠惰な性格である。
 で、更新復活一冊目は本書。リチャード・マシスンは初めて読む。
 

 大まかな粗筋は語り手である植物人間(ただし意識あり)デラコートの眼前で、その息子マックスが延々と来訪者相手に趣味の悪い奇術を延々と仕掛け続けるだけである。物語の中盤で殺人らしき事件まで起きてしまうが、事件を起こした張本人が気が狂った(ように見える)奇術師であるばかりに、それが本当に起こった出来事なのかはたまた奇術の一環なのか。読者はただただ煙に巻かれ続けるというわけだ。
 
 どうやらこの「どんでん返しが過剰」というところで本書の評価が二分されているように感じる。「ここまでやるとは」と拍手喝采を送る人がいる一方で、二階堂黎人(をはじめとする何人かの人々)が「どんでん返しの難易度が低い」と文句をつけていたのが印象深い。
 
 確かに本格ミステリ的なフェアなどんでん返しを期待する向きには面白くないんじゃないかと思う。本格マニアの二階堂が前述のような発言をしたのはわからなくもない。おそらく「フェア精神にのっとった伏線の張ってあるどんでん返しが良質などんでん返しである」という主義なんじゃないだろうか。その限りでは本書におけるどんでん返しはフェアな伏線などほとんどない。私も端正な伏線によって導かれるどんでん返しは大好きなので二階堂の言いたいことはある程度わかる。
 
 しかし私は、何もそのような観点からのみで評価しなくとも、本書は立派に面白いと思うのである。以下、その理由を書こうと思う。
 
 本書の特筆すべき点、それは視点人物エミール・デラコートとその息子マックス・デラコートの関係性である。ともに「偉大なるデラコート」たる奇術の深奥を極めた人物であるのに、作中においては片やほいほい騙される「観客」、片や誰も真意を理解できない怪物的「演者」とはっきりと対極に位置づけされている。エミールが全く身体を動かせず内面の語りだけで描写される人物であるのに対して、マックスは次々と不可思議な奇術を繰り出すがその内面は一切語られない。これはかなり意図的に分けられているように感じられる。
 
 エミールもかつては第一線に活躍したマジシャン、しかもマックスの奇術の師匠である。にも関わらず易々とマックスに騙されてしまうのはどのようなわけだろうか。この理由を考えたとき本書は私に格段の輝きを見せた。
 
 エミールとマックスがともに「偉大なるデラコート」の通り名を称していることからもわかるとおり、二人は分身体なのである*1。しかし精神だけが生き続けるエミールにとって、己の持つ技術だけを外部に具現化したマックスは理解しがたい怪物にしか見えない。つまりこの小説は、例え自身の分身でさえも外部から見た場合に怪物にしか見えないという事実を描いた恐怖小説なんじゃないかと私は考えた。はたまたドッペルゲンガーものの亜種なのかもしれない。
 
 ならば、どんでん返しが伏線など何もなく唐突なのもマイナスにはならないのである。なぜなら「理不尽な理解不能性」がテーマなのだから。
 
 というわけでかなり面白い。タイトルにカーやロースンを期待した人には退屈かもしれないが、本年度の収穫の一つであるといっても良いと思う。

*1:この説に拠ると本書のエミールが××するラストシーンは興味深い。

青空の卵/坂木司

青空の卵 (創元推理文庫)

青空の卵 (創元推理文庫)

「なぜ安楽椅子探偵はああも腰を上げないのか」「なぜワトソンはホームズをああも信仰しているのか」といったお約束を、やや真面目にパロッた*1作品集。
 
 よくよく見ると、実は全編「婉曲的過ぎて届かないメッセージ」をテーマにした謎解きに取り組んでおり、男女の性差、友人、夫婦、親子とバラエティに富んでいる。
 このバラエティの豊かさ―関係性の目録は、ありとあらゆる人間関係が例外なくコミュニケーションの不能に陥る可能性があることを示唆しており、各編の犯人(?)たちは「精神的引き篭もり」に罹患しているといえよう。
 これに対するは一般的引き篭もりの鳥井真一。関係人物がいかにしてコミュニケーションの齟齬を生じたかを解明していく姿は、自らの鏡像に対峙しなければいけない試練の姿とも受け取れる。鳥井が度々見せる犯人たちへの悪態およびヒステリックに叫ぶ様は、自らへの苛立ちをも内包していると邪推できよう。
 ここでまた「探偵と犯人の相似性」というお約束が現代的な意匠を借りて蘇る。何とも内省的、自己言及的である。
 
 ともすれば神経質すぎるとも批判されかねないキャラ・プロットだが、上述のようにいわば古典的探偵小説の換骨奪胎。
 この作品があざとすぎるとすれば、それは感動を狙ったかのようなテーマ設定ではなく、計算され尽くした構造である。
 近々に続けて文庫落ちするようなので、シリーズ最後まで読んでみたい。

*1:注:この点については筆者の完全な主観による印象である事をことわっておく。

いざ言問はむ都鳥/澤木喬

いざ言問はむ都鳥 (創元推理文庫)

いざ言問はむ都鳥 (創元推理文庫)


 例えば泡坂妻夫「紳士の園」やチェスタトン「名ざせない名前」といった作品群を彷彿とさせる、傑作短編集。
 
 本書を指して「壷中の天」とは編集部の便概であるが、非常に本質をついた評である。
 近景と遠景の境界が溶け合い、全てが同一平面上であったという紙絵的世界を全編に渡って静かに端正に描出する様は、読者に閉塞、幻惑といった陰翳を拒絶させる事なく擦り込み、暗い静謐を与えることに成功している。
 加えて語り手の視点。絶えず移ろい、あまり定まらない茫洋とした焦点で語られる視点に最初は読み辛さを感じたが、読み終えた後にはこの視点なくして作品世界は成立しないことに気付く。
 このアンチ・フォーカスとも言える風景/観察者は作者最大の特徴であり、なかなか得がたい世界・語り・謎を現出させる。
 
 生態学者たる主人公が痕跡を採集するフィールドが、実は自然の中ではなく造園めいた世界であったというアイロニカルな設定も素晴らしいし、バークリーばりのトークライブな推理も良い。
 
 何はともあれ、創元推理文庫最強のカードの一枚であることはいえよう。「日常の謎」系のハシリなんて呼びこみよりも、チェスタトン―泡坂ラインの正統な後継とでも言った方がしっくりくるんじゃなかろうか。埋もれている事が信じがたい傑作。

夏期限定トロピカルパフェ事件/米澤穂信

夏期限定トロピカルパフェ事件 (創元推理文庫)

夏期限定トロピカルパフェ事件 (創元推理文庫)


 「重たい」物語についつい飛び込んでいってしまう若者の「軽々しさ」を描いたのが『春期限定〜』であるなら、自らの「軽い」ということそのものが逆説的に「重み」を帯びてしまうのが本作と言えよう。
 なんだかんだで自己肯定に満ち満ちた前作ラストとは対照的に、本作ラストの足取りは非常に重い。前作と綺麗な好対照であり、一対としてみた場合非常に高く評価できる*1
 正直、シリーズ2作目で早くも転機が訪れるとは思わなかったが、この米澤の「手の早さ」はリアルタイムで売出し中の作家として非常に強みだと思う。


 一方で、本格ミステリの観点で見た場合。これもいつになく出来が良い。
 米澤作品お馴染みの小道具である地図&リストは有機的に結びつき、これも繰りかえし米澤作品で語られるあるモチーフを際立たせている。作者集大成の感極まれり。
 また、独立した短編としても読める「シャルロット〜」は前作の「ココア」の発展版であり、個々の短編と連作としての構図のレベルの高さは前作を上回る。


 結末を指して「気持ち悪い話だ」で一蹴する声が少なからず挙がってきそうな作品だが、本作は「気持ちの悪さ」が主題に含まれる作品なのでこれは問題にすべきでない。シリーズ追って読めば別の形で落ちるだろうし。
 非常に楽しめた作品だった。

*1:ちなみに近作『犬はどこだ』の変奏でもあったりするので、これを食傷ととるかとらないかといった観点では評価が別れそうな気もする。

依存/西澤保彦

依存 (幻冬舎文庫)

依存 (幻冬舎文庫)

 
 私は匠千暁シリーズには奥歯にものが挟まったような何とも言えない感情を持っていた。それはいったい何だろうか? ということで現時点でのシリーズ長編最後の作品まで読んでみた。
 
 匠千暁シリーズの顕著な特徴として主に挙げられるのは以下の点だと思う。
 1…妄想スレスレの推理による多重解決推理
 2…大学生達が織り成す、昏い情念をも露出させた青春小説的側面
 1・2のどちらにおいても、他の作家がなかなかやらない領域まで踏み込む事による過剰性を帯び、それがシリーズを特徴付けている。
 
 当然、これらの特徴を純化させるための装置としての舞台設定、およびキャラクター配置はなされている。タック・タカチ・ボアン・ウサコの妄想大学生4人組とその他多くのゲストキャラは度々酒宴を開催し、酒気、そしてあの大学生特有の関係性を持ってして推理の「場」を作り上げる。成程、この舞台設定なくして一連の作品群における推理の放埓さ(蓋然性の詩学と呼ぶ人もいる)や、その推理が導くえげつない真相もできなかったであろう。
 
 ゆえに、私はこのシリーズをブランドの『暗闇の薔薇』のようなサロン小説だと思っている。ボアン自らが認めるように、作中度々開かれる酒宴は主役4人組を中心としたサロンであり、そこでは(当事者が絡むゆえの多少なりともの切実感はあったとしても)推理は大人の秘めたる遊戯として認識され、人々の密かな愉しみとなっている。
 
 私はこのシリーズを読み進むにつれて、そこに違和感をもってしまった。で、冒頭に戻るが不気味さを感じてしまったのである。

 ※今回は『彼女が死んだ夜』、『仔羊たちの聖夜』、『スコッチ・ゲーム』の真相にも若干抵触するので、これらの作品を読み終わった人のみ下記のネタバレ感想部分を読んでください。
 
 以下ネタバレ
 →すでに何作か読んでしまった人はおわかりだと思うが、このシリーズは毎回サロンの内側にいる人物(『彼女〜』のハコちゃんとか『仔羊』のカップルとか)が陰湿な小悪党だったという真相に着地する。その身内犯罪率の高さたるや『金田一少年の事件簿』の不動高校のようである。対して、主役4人組はそれらの陰湿さとは無縁であるとばかりに彼らを糾弾し、その一方で俗世を隔絶せんとばかりに純粋理性(すなわち推理)によって潔癖な関係性を結ぼうとする。
 ここで注目すべきは、何度犯罪者を出し、その度にやるせない嫌な思いをしたところでサロンが解体されない点だ。主役4人は相変わらず中心部に超越者然として腰を据えており、周辺部(多くがボアンやタカチのシンパ)だけが代替可能なものとして交代していく。このサロンはまるで自己再生を繰り返す生き物のようだ。これは見様によっては非常にグロテスクである。
 そして、サロンの周辺部にいる人々は自己の内面の卑俗さを告白し、去っていく。しかし、主役4人(特にタックとタカチ)だけは事件の過程で(タカチは『スコッチ・ゲーム』で、タックは『依存』で)明かされる自らの醜悪な部分をなかば逆説的に肯定し、より関係性を純化させていく。
 そこには宗教的な荘厳さと気持ち悪さが混濁された何かが確実にあり、それはサロンの規範を超えた何かだ。主役4人は選ばれたようでいて、逆に取り残されたような印象すら受ける。何だろうか、この落ちつかない感じは。

 
 しかし、そんな疑問も本書の山場を読んでストンと落ちる。
 それは本書ラスト近くで語り手ウサコが仲間に入りこむために卑小な手を使ったことを恥じているのに対し、タカチはタックと出会ったことを運命だったと全肯定する対比構造。
 痛みを伴う自ら(と愛する他者)の絶対的全肯定。これがシリーズのテーマなんじゃないだろうか。
 
 私は作中の主人公達のような生き方を、正直に告白するなら少し不気味に思ってしまったことは否定しない。が、その志向性は理解できなくもなく、達成しよう(そしてある程度達成された)と奮闘する西澤の姿勢は大いに買える。
 
 実は西澤の超能力系作品よりも癖っ気の強いシリーズであり、万人受けとはちょっと違うと思うが、『依存』・『黒の貴婦人』あたりのテンションはかなり高く、好むと好まざるとに関わらずそれは楽しい。
 とりあえず最新作出たら読みたい。