暁の死線/ウィリアム・アイリッシュ

暁の死線 (創元推理文庫 120-2)

暁の死線 (創元推理文庫 120-2)

 
 たまたま同じ郷里で実家がお隣さん同士だったというだけで、意気投合。男にかけられそうな容疑を晴らそうと、恋人のように強い絆で犯人を捜す本作。
「何となく」よりも強い確信だが、絶対というほどの理由もない関係性(一緒じゃないと郷里に帰れないからという、少なくない読者が奇異に感じてしまうモチベーションの特異性は本書の見所の一つだと思う)は以前に述べたアイリッシュの作家的特徴ズバリ。また、主人公たちと真犯人は非常に対照的であり、何らかの含意を予感してしまうが、まさかそこまで考えるのは勘繰りすぎか。
 
 興味深いのは大時計の使い方。本書では「ヒロインがたった一つ信じられるもの」として、また主人公達と読者にタイムリミットを告げる役目として、章毎に時計が表示されるが、これが非常に良い感じなのである。
 『暁の死線』で時計が頁の合間に用いられているのは、読者に焦燥感を与えサスペンス効果を与えるためというのが、従来の定説である。まあ、そうなんだろう。
 しかし、本書を都市小説として見た場合、全く違った解釈もできる。
 「ニューヨークのどこにいても時間を告げてくれる大時計」は換言するなら「この時計を見る限り、どこにいてもそこがニューヨークであることを嫌でも意識させてしまう」ということであり、「この大時計が目に届く」=「ニューヨークに囚われている」ということでもある。
 つまり大時計は時間ばかりか、空間的な束縛を意味しているのである。この事実は本書のゲーム性を高めており、それは成功しているといえよう。
 
 せっかく出会った男女が捜査効率の追求から、すぐに別行動をとってしまうあたりもアイリッシュらしいといえばアイリッシュらしく、それぞれのルートで出会う容疑者が男だけ、あるいは女だけであるというお遊びや、この設定ならではのクライマックスを用意しているが、正直サプライズという意味ではやや外している感はする。
 しかし、様々な試みが楽しい円熟期の傑作の一つであることに変わりはない。広くお薦めできる作品である。

オックスフォード連続殺人/ギジェルモ・マルティネス

オックスフォード連続殺人 (扶桑社ミステリー)

オックスフォード連続殺人 (扶桑社ミステリー)

 
 いやー面白かった。
 「アルゼンチン発、驚愕の超論理ミステリー」*1なんて怪しげな宣伝文句が嫌でもボルヘスを期待させ、それはちょっと期待しすぎかとドキドキしながら読んだが、文句が出ないほど楽しませてもらった。
 
 正直、解説の千街晶之が指摘する(というか誰が読んでも突っ込むだろう)アレ(解説のP282の16行目〜P283の1行目、ネタバレ該当箇所なので注意)にばかり目先が行ってしまい、凡作評価を与えられかねない可能性はある。が、私は以下の観点からこの作品を絶対的に指示したい。

 以下ネタバレ。
 
 →発端のイーグルトン夫人殺しを別にして、その後の事件全てが偶然の出来事だったという真相は、直感に頼るにせよ何にせよおそらくほとんどの読者が辿りつける真相だろう。「あまりにも不可能な殺人」はその過剰性ゆえ本当に不可能だったという皮肉だ。当然、たったこれだけの真相ならすでに偉大な巨頭は存在し、確かに評価に値しないだろう。
 事件の犯人(というより演出者?)セルダム教授にとって、非常に都合よく死体が転がってくる展開を「運命」とするならば、それを操り意味を持たせてしまったセルダムの行為は「運命」をねじ伏せる「作為」に他ならない。この「運命」と「作為」の対比は言いかえるなら「神」と「人間」の対比である。
 しかし、『オックスフォード連続殺人』はさらに捻る。この作品のユニークネスはセルダムが犯人であると同時に、探偵役も買って出てしまうというところである。「追うもの」と「追われるもの」は「同一」であり、セルダムはさながら「尾を喰らう蛇」のようだ。
 私はここで「あれ?」と思った。「同一」・「尾を喰らう蛇」といえば、事件の中で唯一セルダムが関与せず、偶然に表れた最初の記号「○(円)」のことだ。
 つまりセルダムが選んだ背徳の道は、最初の事件で偶然にも「神」によって暗示=支配されているということはできないだろうか。
 「神」を、「運命」を操ったかに見えたセルダムは、結局運命の輪の中にいたままであるとも読めてしまうのだ。
 「運命」が先か、「作為」が先か。バークリー『毒入りチョコレート事件』が終焉の決定不可能性を示唆した探偵小説ならば、本書は発端の決定不可能性を示唆した探偵小説と言えなくもない。
←ネタバレここまで。
 
 というわけで、非常に見え透いた誤解を受けやすい小説だとは思うし、それ抜きにしてもどうも黙殺されているっぽいが、興味のある人はまず読んでみると良いと思う。

*1:帯より。

空白の殺意/中町信

空白の殺意 (創元推理文庫)

空白の殺意 (創元推理文庫)

 
 創元の中町信・改稿決定版シリーズも第3弾である。今回は『高校野球殺人事件』の改題。
 
 題材は甲子園だが、白熱した試合描写も無ければ球児達の青春グラフィティも無い。代わりに前面に押し出るのは大人達の名声欲や利権争い、愛欲のもつれだったりする。この辺はいつもの中町信であり、期待通りといえば期待通りなのだが、「生来の野球好き」*1を標榜するならば食いつき足りないとも思う。
 むしろ高校を「旧家の一族」、甲子園出場権を「遺産相続権」に置換してみるとロジャー・スカーレット『エンジェル家の殺人』みたいな話であることに驚き、換骨奪胎とはこういうことかと実感した。

 お話がお話なので、物語に登場する3つの高校の陣営が入り乱れて大騒ぎし、なおかつ警察や被害者の家族まで出張ってくるので、視点人物の転換はいつも以上に混乱を極める。この狂奔はある意味では面白く、警察小説の香りもほんのりとしなくもないが、それでもやはり終盤になるまで誰が探偵役なのかすらわかりにくいというのはマイナス点。
 
 一方で謎解きの方に目を向けると、中町の十八番である例の趣向は今回も冴えている。非常に丁寧で巧い。最初に読んだときは、「マニアならともかく、一般人の読者にはこの凄さは伝わりにくいかもな」と思ったが、よくよく考えてみると解決部でわざわざリフレインさせているから、そうでもないかと思いなおす。フェアである事を強調したいという姿勢がビシビシと伝わっており、作者にとっても愛着のあるトリックと見うけられる。
 が、本の造りに欠点がなくもない。
 以下ネタバレで不満。
 
あの登場人物表はどうにかならなかったのだろうか。2時間ドラマのキャスティング表並みに犯人バレバレじゃないですか?『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』へのオマージュである事が喧伝されている以上、勘の良い人には一瞬でバレてしまう。何より致命的なのは折原一の解説文の「「プロローグ」を読み返すと、じわじわと感動が湧き起こってくる。」という一文。せっかくの小粋なトリックが非常にもったいない。
 
 『模倣〜』、『天啓〜』ほどの派手さはないが、中町信の燻し銀の職人気質に惚れ込んだ人なら非常に気に入るだろう。次回も期待している。

*1:創元推理文庫版297Pより。

黒い天使/コーネル・ウールリッチ

黒い天使 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

黒い天使 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 
 ミステリ史上において、巡礼スタイルのプロットをとる作品など多々ある。聞きこみ→新事実判明→新たな訪問対象発覚→聞きこみというのは、素人玄人問わず足を使う事を信条とする探偵たちの常套であり、むしろ捜査行為というのは多かれ少なかれ自然とこのようなプロットになってしまうのかもしれない。
 
 それでも、コーネル・ウールリッチ*1が描く巡礼は独特の色を帯び、それをしてウールリッチをオンリーワンたらしめる。
 それは都会、夜、詩情溢れる言い回しなどといったウールリッチを彩る常套句のみにとどまらない、「ウールリッチにとって他者とは何か」といった重要なテーマを垣間見せるからだと言うことができる。
 
 ウールリッチの作品群は良くも悪くも「独立した短編を連続で読ませるような」プロットと言われることが多く、本書や『黒衣の花嫁』などを読めばそれは一目瞭然だと思われる。「本質的に短編作家」とさえ言われ、シーンや情景の刹那を切りとるのが巧い反面、物語の主軸となるべき一本の線が弱いなどといった批判も聞こえてくる。
 
 しかし、この「短編数珠繋ぎ」ともいえるプロットにこそ、「ウールリッチにとっての他者とは何か」という主題は身を潜めている。
 
 通常の巡礼形式型ミステリーでは、主人公は人と会うことによって関係者たちの関係性を束ね、事件全体の構図が明らかになるといったパターンが多い。このような点(人間)と点が線(関係性)で結ばれ、線が集まり一つの絵になるといった趣向はロスマクなどに代表される。
 このスタイルの顕著な特徴は、「点は結ばれないでいることを許されない」という意志が働いているところだろう。人間は必ず何らかの関係性で結ばれているという狂気めいた確信が、普通の人間には到底信じられないような“線”までもを暴きたて、それが意外性や絵を完成させたカタルシスに直結する*2
 
 しかし、ウールリッチはこれに対し、真逆の態度を貫くのである。
 ウールリッチ作品における巡礼で明かされるのは、「人間は大して繋がっていない」という諦念めいた確信だ。事件のキーマンと推測される人物を訪ねども訪ねども、事件との繋がり(=被害者との強い関係性)などは存在しなかったことばかりが明らかになっていき、主人公は途方に暮れてしまう。
 「被害者はなぜ殺されたのか」、「被害者/犯人は何を思っていたのか」、「被害者はどんな人生を歩んできたのか」といった人間に対する興味は極めて薄く、作品の9割を読み進めても事件の構図は何もわからず、振り出しと大差ないといったことはままある。
 また、巡礼を重ねる主人公からして訪問対象に対する興味は薄い。犯人でありそうなら相手の内面を執拗に追求する反面、犯人でないと解かった瞬間には相手の存在を頭の片隅から追い出し、別の対象に向かってしまう。『黒い天使』の主人公アルバータもその一人で、生まれ持った美貌で相手に近づき、用が無くなれば姿を消してしまういわば「幻の女」である。このビジネスライクな関係性は娼婦と客の関係性のようですらある。ゆえに、各エピソードは読者にとって尾を引かず、短編集のような割り切りを見せてしまう。
 
 ここで印象的なのは、この他者の内面に対する興味の薄さは、そのまま自己の内面への追求も避けているという点だろう。アルバータはどのような人生を歩んできたか、どのような考えを持って生きてきたのか、最愛の夫カークをどれほど愛し、どれほど印象深い思い出があるのかといった描写は、物語の整合性を成立させるための必要最低限しか描出されず、アルバータが専ら考えているのは「誰が犯人なのか」ということだけである。
 そもそも、アルバータが巡礼に旅立つ理由となった「夫への愛」。これが驚くほど読者に対して説明されない。夫カークは浮気はするわ、真犯人に嵌められるわ、警察に捕まり喚くわでとても愛すべき対象に見えず、読者によってはアルバータが夫に愛を捧げる理由はピンとこないだろう。
 
 しかし、ここにこそウールリッチにおける「他者とは何か」という切実な問題が潜んでいる。
 思うに、ウールリッチにとっての他者とは「交歓の対象」ではない。相手の意志や過去などは必要ないのである。「ただ存在だけしてくれていればよい」といった最低限の望みこそがウールリッチの作家性なのだ。ウールリッチにとっての他者とは、あたかも夜の闇に浮かぶ常夜灯であり、“点”である。存在さえ確認できればよい。決して交歓する必要も無い。何とも刹那的である。
 ならば、アルバータにとってのカークもそういうことだ。夫という存在はいてくれるだけでよい。愛など深く交す必要はないのだから。「ただいてくれさえいればよい」といった最低限の望みすら絶たれたアルバータが悲壮な決意に駆られたのも納得できる。
 
 さて、非常に長くなってしまったが締めである。上述を踏まえると、『黒い天使』のラストは「他者とは何か」という主題を大きく揺るがす。氏の代表作『幻の女』や『黒衣の花嫁』が触れなかった一線を大きく踏み越えたのが本書であり、その意味では異色中の異色とも言える。以下恒例のネタバレ反転。
 
犯人ラッドの狂気めいた壮絶な感情の渦に直面したアルバータは、夫を含む他のどの男でも入りこめない心の奥に侵入されてしまう。
 そして、(原文にあたっていないので、訳文による解釈で非常にもうしわけないのだが)終幕において夫カークは「この人」、ラッドは「あの人」として対置される。「この人」とはいつも身近で存在を確認できる人、「あの人」とは存在を確認できないが心に住みついてしまった人のことだ。つまり、アルバータと犯人ラッドはウールリッチ作品が踏み越えなかった一線を越えてしまったのだ。「黒い天使」とは目的のためなら手段を選ばない非情の天使という意味だけでなく、貞節のさらに向こうにある越えてはいけない線を越えてしまい、安住の楽園を追放された天使という意味も持っている。

 
 このアルバータ被爆。これによって『黒い天使』は私の中でウールリッチの最高傑作であるばかりか、忘れがたい一作になってしまった。本当に傑作ですよ。

*1:当然、アイリッシュ名義の作品も含む。

*2:ここらへんは以前にも『生首に聞いてみろ』の感想で書いたので興味のある方はどうぞ。

毒薬の小壜/シャーロット・アームストロング

毒薬の小壜 (ハヤカワ・ミステリ文庫 46-1)

毒薬の小壜 (ハヤカワ・ミステリ文庫 46-1)


 『深夜の散歩』に感化され手に取った。これはいい。大傑作だ。
  
 「分類するのが困難」(小笠原豊樹)、「滑稽スリラー」(福永武彦)などなどと評されるのも当然で、サスペンスとしては破格である。手に汗握る毒薬の追跡劇が主となるのかと思いきや、恐怖感や焦燥感とはほとんど無縁。小説前半部の鬱屈が嘘であるかのような、後半部の展開。まさかこんなお話になってしまうなんて予想できない。世間の常識(あるいは美徳と呼ばれるもの)がすべからく善良な主人公を痛めつけてしまうある種の逆説的状況と、それを打破せんと挑む村の人々。高踏的な議論に踏み込まず、井戸端会議のレベルで延々とこの攻めぎあいが続く。
 
 なぜか途中で脇役のラブロマンスが始まったり、バスの運転手が実はインテリだったり、ラストで明かされる毒薬の行方を鑑みるに、明らかに作者はサスペンスの緊密な空気は意図しておらず、バスの中で延々と繰り返される「善意の在り様」を主題としたディスカッション(とそこから導かれる喜劇)が小説の主であることは疑いようもない。いかにもクイーンが好みそうな主題*1がダイナミックに語られる。作家としての性質はポーストやA・H・Z・カーの系譜に連なるのかもしれない。ともかく、この小説を地味とか罵った人には猛省を促したい。
 
 また、強いてミステリー性を問うならばこの作品では善意/悪意の議論の向こうに、レトリックによる詐術の存在が指摘されており、これがコテンパンにのされていく様は痛快だ。ある意味、「操り」テーマの亜種として数え上げることもできよう。
 
 恋愛小説として、人間小説として、ドタバタ劇としての三位一体の展開・着地が非常に心地よい。伏線もばっちり決まってるし。人間の善意が全て物語のラストに向けて収束する小説が好きな人には声高々に推薦したい。
 ちなみに、タイトルおよび毒薬が持つ暗喩の解釈は訳者に完全に同意。

*1:短編「敵」で黄金の13にも入っているわけだし。余談だが、カソリックの規範を意識して離婚に踏みとどまれなかった主人公が選んだ最後の手段が自殺というところも面白い。

悪女パズル/パトリック・クェンティン

悪女パズル (扶桑社ミステリー)

悪女パズル (扶桑社ミステリー)


 これは良い本格ミステリを読んだ、という気分にさせてくれる稀有な作品。

 伏線一発によるトロンプ=ルイユ*1系の解決は事件構造の大掛かりな逆転のみならず、とある登場人物像、ひいては本書で提示された「不幸な結婚」までもを何重にも覆す。まさに「おお、トロンプ=ルイユ!!」というフレームで魅せる解決である。
 夫婦探偵の先駆であるアガサ・クリスティーのおしどり探偵や、クレイグ・ライスのジャスタス夫妻(探偵はマローンだけども)に比べると、ややおとなしすぎるきらいこそあるものの、解説を見るかぎり他の作品では一癖も二癖もありそうであり、判断は保留したい。


 また、福永武彦風に言うなら、この作品のミソは各章題である。
 以下ネタバレ。
 →実はこの作品の主な登場人物は、全て何らかの婚姻関係を持った人である。最初は(主人公夫婦を除き)3組だけかと思われていたのに、物語が進行するとともにロレーヌがフライング結婚していたことが判明し、チャックが重婚していたことも判明する。つまり各章題に挙げられた女性達は単なる「被害者つながり」だけに留まらず、「不幸な妻たち」という意味も持ったダブルミーニングになっているのである。何とも洒落ているじゃありませんか。←ネタバレここまで。


 本格ミステリの収穫の一つといってもよいかと思われる。ジル・マゴーン『騙し絵の檻』が好きな人なんかには薦められる。


 追記:ラストの秀逸なオチは、グレアム・グリーン『負けた者がみな貰う』の「なかなか来ない待ち人」を彷彿とさせて思わず笑ってしまった。両作品の間に因果関係はないのだろうけど。

*1:騙し絵のこと

スクランブル/若竹七海

スクランブル (集英社文庫)

スクランブル (集英社文庫)


 本書を読んで、「推理とは何か」ということを考えてしまった。辞書的には「論理によって推し量ること」とでもしておけばよいのだろうが、どうもそれだけではなさそうだ。


 思うに、「推理」には二つの側面がある。
 一つは水も漏らさぬ堅密性。みんな*1が大好きな完璧なロジックによる収束である。クイーンに代表されるパズラーは「推理」のこの側面が核であり、推理小説の面白さの核となっている。なにもパズラーに限らず多くの推理小説はこの伏線の論理的回収作業を多かれ少なかれ伴っているといっても過言ではない。
 
 さて、こうした観点から見た場合、『スクランブル』は面白いか否か。
以下ネタバレ。
 →すでに読み終わった方々にはご存知の通り、『スクランブル』は女子高の文芸部面々の視点&推理(&物語)のリレーといった構成になっている。各々が冒頭の殺人事件に挑み、敗北して次の走者にバトンタッチすることで物語は進行する。
 ここでの面々の推理結果は、おそらく本書の先祖の一つであろう『毒入りチョコレート事件』よろしく散々な結果である。(作中の1980年時点では)飛鳥を除いて全滅。推理を外した対価として、みな人前で恥をかくはめになってしまう。
←ネタバレここまで。
 つまり『スクランブル』中盤の推理合戦は堅密性から大きくかけ離れているといってもよい。
  
 ならば『スクランブル』が推理小説として駄作かというとそんなことは全然なく、むしろ上等な部類に入る。
 なぜかというなら、『スクランブル』の面白さを屋台骨として支えているものの正体こそが「推理」のもう一つの側面だからだ。
 それは、「いいかげんさ」である。

 夏見を始めとする文芸部の面々は、起こった殺人事件に対して使命感や切迫感などみじんも持たず、自ら趣味とする読書の延長線上で事件を接収する。
 よって「推理」は堅密性(のようなもの)は持ちつつも、読書やゴシップと同一平面で語られ、「いいかげんさ」が前面に押しでてしまう。
 
 ここで注意してほしいのは、『スクランブル』でこそ顕著だが、このような「推理」の「いいかげんさ」は本作に特有のものと言っているわけではないということ。むしろ、全ての推理小説にこの特性は敷衍されると私は思っている。

 
 推理とは(1)失われた時間・空間・および動作に漸近した思考を、(2)説明体系に組みなおすことである。
 あくまでも「漸近」に留まるし、ましてや「語られる」ものなのである。堅密性を求めつつも、必ずそれに対する反発――いいかげんさを含んでしまうというアンビバレンツな行為、それが推理である。

 ならば今度は逆に、以上の論からエラリー・クイーンが「どうせ完璧な正確さなんて再現しえないんでしょ」といって謗られるかといえば、それはノーである。推理が正確であるかどうか、あるいは放埓であるかどうかが問題なのではない。正確さ(あるいは放埓さ)へ向く作者の意思、つまり志向性こそが推理小説の属性を決定している。
 その限りでは、永遠に辿り付く事のない真理の地平へ歩みを止めないクイーンの姿勢は評価されるべきだし、逆にいいかげんであることを自覚してとめどなく語りつづける若竹の姿勢も評価されるべきだ。


 『スクランブル』は他の推理小説が神聖視する「推理」行為がゴシップと同列に陳列されるさまを描いた小説である。恋愛や輝ける汗といったものと疎遠な暗黒系青春小説が持つゴシップ・オタク的妄想力と推理行為の暗黒面が巧く調和している。
 当然、何も捻くれた上述のような読み方をせずとも見るべき点はあり、代表作の一つにいれてもいいんじゃないだろうか。

*1:本格ミステリオタクな人々