深夜の散歩/福永武彦・中村真一郎・丸谷才一


 今までの感想がフィクションばかりなので、たまにはエッセイ集の感想もいいかもしれない。もっともこの本に関して言えば、全文あますことなく楽しく、紹介されている作品以上に面白い文章も多々あるので、ある意味優れたフィクションと呼べなくもない。
 
 三者三様の持ち味こそあれ、独創性とユーモアセンスはみな頭抜けているので最初のページから最後のページまでだれることなく楽しめる。あまりに有名な丸谷のチャンドラー『プレイバック』評を持ち出さなくとも、センス・オブ・ワンダーが溢れているのは一目瞭然。たまに首を傾げたくなる文章もあるが、トータルとして神がかっている。
 やはり私が最も敬愛する読書スタイルはセンス・オブ・ワンダー系である。
 
 また、解説は瀬戸川猛資だが、氏の名著『夜明けの睡魔』が影響を受けていることは想像に難くない。
 『深夜の散歩』、『夜明けの睡魔』ともにそのタイトルから「ミステリーは深夜に一人で睡眠を惜しんで読むものである」といった気概が察せられるのだ。
 本書の中でも、丸谷才一は第七回「ダブル・ベッドで読む本」(ハヤカワ文庫版P222)で小説を「一人きりで鑑賞する芸術」と述べ、読書行為の孤独性を主張している。
 
 しかし、『深夜の散歩』では福永は、中村は、あるいは丸谷は読書体験についてこの本の読者という相手を得て面白おかしく語っている。一人で楽しむものならこんなに饒舌になる必要ないんじゃない?というくらい熱っぽい。ましてや対象は読者。その場で反応など返ってこないのに。
 これは「一人で楽しむべき」小説は会話の俎上に上げられてこそ、2段階目の面白さに突入するからだ。小説、特にミステリーに顕著な特性の一つに話を収集する面白さがあり、自らが収集した物語を愛で、自慢し、交換することによって新たな楽しみを得る。
 言わば「本を読むために在るのが夜ならば、本を探すために在るのが昼」なのだ。
 
 上記について少しでも共感を抱いてくれる人には必読の名著。

法月綸太郎の本格ミステリ・アンソロジー/法月綸太郎編

法月綸太郎の本格ミステリ・アンソロジー (角川文庫)

法月綸太郎の本格ミステリ・アンソロジー (角川文庫)


 以前に刊行された有栖川、北村の同シリーズアンソロジーが非常に面白かったので、今回も非常に期待し、結果全くそれは裏切られなかった。ちなみに既読はボルヘスのみ。


 中でも特に面白かったのは「ミスター・ビッグ」、「ひとりじゃ死ねない」、「偽患者の経歴」あたり。この3作あたりを取り上げて感想を書いてみよう。


「ミスター・ビッグ」ウディ・アレン
…ハードボイルドとは不在が生んだ物語である、とは誰の弁だか忘れてしまったが、それを極端化するとこうなる。パロディとして紹介されているが、私はこの作品をおふざけで読む事があまりできず、素直に傑作だと感心してしまった。極端化の精神はパロディに至る道のみならず、傑作への道でもある。過去の巨匠達による傑作群はみな少なからずこういう精神を持っていると思うのだけど。
バカミスは嫌いじゃないし、それを賞賛する人も否定しないが、稀有な視座や壮大な空想を持った作品ならばなんでもかんでもバカミスの一括りで呼称する風潮は少し嫌である。


「ひとりじゃ死ねない」中西智明
…この作品に関してどこがどう面白かったかを語るのに、ネタバレ有りじゃなきゃ辛い。というわけで、以下ネタバレ。
(発想の馬鹿馬鹿しさのせいで奇抜に見えるが)オレ=麗美という叙述トリックだけに注目するなら、同じ程度の水準の作品は他にもあるだろう。
 しかし、「ひとりじゃ死ねない」はこのメイントリックを支えるミスディレクションが非常に巧い。作者は中橋優紀の性別に関する描写(地の文で彼/彼女を使用しないとか、どちらともとれる口調とか)を徹頭徹尾排除したことによって、ちょっと叙述トリックに詳しい読者に「ははーん、中橋優紀の性別誤認トリックだな」と思わせることに成功している。恋愛絡みの事件であること、わざとらしく「オレ」などと犯人に独白させていることも加わり、この偽の叙述トリックに引っかかった人は多いんじゃないだろうか。
叙述トリックを装いながらそうではないことが、逆説的に第2の叙述トリックになっている。国書刊行会の世界探偵小説全集の某作なんかと同じ。
←ここまで。
 以上の理由から非常に感じ入りました。アレが来るとわかっていながら、構えた人ほど騙されるというマニア殺し的なところはミス研出身者ならではのツボの押さえかた。


「偽患者の経歴」大平健
…上述2作品はこのアンソロジーでなくとも、いつかは出会っていたかもしれない。しかし、この作品(?)だけは法月綸太郎がいなければ一生出会うことはなかったろう。これぞアンソロジーの醍醐味。
 「実話である」という事実が事前に提示されている背景こそあれど、読者が感じる並々ならぬ緊迫感は非常に良い感じ。探偵VS犯人という図式を医者VS患者そのままスライドした結果…というオチも非常によい。「事実は小説より奇なり」なんていう陳腐な言葉じゃ片付けられないものがある。実は個人的集中のベスト。


 他にも「はかりごと」や「脱出経路」なども非常に面白かった。マニアックさも保ちつつ、教科書的な構成を保っている点もグッド。今年の出版物の中でも指折りの傑作アンソロジー

メルトン先生の犯罪学演習/ヘンリ・セシル

メルトン先生の犯罪学演習 (創元推理文庫 145-1)

メルトン先生の犯罪学演習 (創元推理文庫 145-1)


 北村薫創元推理文庫最強と絶賛していた*1ので、今まで未読だった自らを恥じつつ手にとった。
 

 旧装丁では時計マークをあしらわれ、ユーモア系リーガルとして紹介されているようだが、むしろ流行りの奇妙な味系列。司法をも相手にした強烈なおちょくり精神が全編フルに炸裂する。何気にフィニッシングストローク連発のパワータイプである。


 しかし、各編の素晴らしさもさることながら、私がより感心したのは連作を串刺しにする外枠だったりする。
 メルトンが醸す「語る行為が持つ楽しさ」が人々に伝播していく様といったら!これほど作品内に高揚と歓喜が満ちた作品は他に類を見ないかもしれない。とにかく、小説自体が持つ熱気というものをメタなレベルで感じさせてくれるのである。
 とりわけ感心したのは「オチを解かりやすく」だとか「時間がないので小話を」といった要望にメルトンが応えていくシーン。小説の自在性を強く認識させてくれる。
 いくつかの短編にはブラックなオチがつくが、読者に訪れるのは必ず歓喜という珍しさもある。


 創元推理文庫最強という振れ込みは誇大でもなんでもない。たしかに傑作。
小説が好きな人全てに薦める。

*1:北村薫のミステリー館』(新潮社)P495

午後の死/シェリイ・スミス

午後の死 (ハヤカワ・ミステリ 1414 世界ミステリシリーズ)

午後の死 (ハヤカワ・ミステリ 1414 世界ミステリシリーズ)


 はて、非常に何かに読後感が似ている。それもつい最近味わった何かだ。読み終え、しばし考えたら答えは出た。そう、ポール・アルテである。


 といっても、本書はカーにリスペクトを捧げているわけでもなく、奇天烈なトリックや血みどろの惨劇があるわけではない。老女の回想は伝統的な英国ミステリのフォーマットに則っている。
 では、なぜポール・アルテなのか。


 ここからはかなり筆者の推測だが、思うに『午後の死』はアガサ・クリスティーを非常に意識して書かれた作品である。ヴィクトリア朝時代への憧憬や、不幸な結婚に疲れてアラビア世界に逃避した老婆、ソフィアの人物像などの全てがクリスティー(作品)との符合を示している*1
 老婆アルヴァ・ハインは作中度々ヴィクトリア朝時代の英国を揶揄しているが、それが単なる嫌悪ではなく、むしろ遠まわしな郷愁であることは容易に読み取れる。


 ゆえに、『午後の死』とクリスティー作品の関係は、ポール・アルテディクスン・カーに酷似していると思った。


 アラビアンナイト風の語り口による独特な雰囲気や、なかなか小気味の良いラストなど、非常に洒落たミステリーに仕上がっている。英国本格好き、とくにクリスティー好きにはたまらない作品なんじゃないでしょうか。

*1:そう考えると本作のオチは最高だ。

少女には向かない職業/桜庭一樹

少女には向かない職業 (ミステリ・フロンティア)

少女には向かない職業 (ミステリ・フロンティア)


 桜庭一樹どころかライトノベルにも疎い私だが、創元の新刊案内でプッシュされているので手にとってみた。


 冒頭からいきなり殺人者を自らの「職業」とのたまってしまう主人公。実を言うとこのノリは苦手だ、と最初は思った。しかし、読むに連れてプロローグの独白が反射神経的に生まれたものではないように感じられる。


 作中、主人公たちが用いる殺害トリックは「つくりものめいた」、あるいは「本格ミステリの古典にインスパイアされた」ものであり、時代にもそぐわないし、ツメも甘い。作中でもその拙さは度々、主人公たち自身によって語られている。どこか遊びめいた、エクスキューズの感は否めない。


 このエクスキューズは主人公たちの「立場」に起因している。
 中学生である自分、親に扶養してもらっている自分、女である自分。これらの役割は桎梏となり、結果プロバビリティの犯罪やアリバイトリックなどという手段に走ってしまう。


 元来、本格ミステリは相手を殺したい、けども自分は捕まりたくないというエクスキューズによって成り立ってきた。殺人がときに手段であったり、目的そのものであったりといった差異はあれども。


 しかし、本作の主人公たちは殺人をそう捕えるほどの余裕も与えられていない*1。殺らなければ殺られるという状況から必然的に殺人を要求されている。ならば、殺人を生業と言わずに、他に相応しい言葉があろうか。タイトルの、そしてプロローグの「職業」発言は適切であるといわざるをえない。


 以下ネタバレ。
 →主人公が最後に選んだバトルアックスで殴殺という手段は、非常に成人的・男性的である。また、トリックで逃げようとせず殺害後に自供という潔さからはエクスキューズは微塵も感じられない。つまり、主人公たちがあらゆる関係性の桎梏から解放されたことを意味している。葵が静香に感じていた恐怖もこの時点で拭われたのもポイントだろう。そして、同時に本格ミステリであることからも解放されてしまった。


 かくして、桜庭一樹は格好付けで登場人物に殺人を「職業」と名乗らせたのでもなく、おざなりで安っぽいトリックを散りばめたわけでもないことは明白だ。思ったより思索の深い作家なのかもしれない。私は楽しめた。


 追記:ところで裏表紙の著者プロフィールの「本書は著者が満を持して放つ初の一般向け作品」という文章はどのような意図から書かれたものだろうか。前述したようにライトノベルに非常に疎いので、こんなことを言う筋じゃないのは承知だが、ライトノベル読者≠一般人という風に見える事に引っかかりを感じる。

*1:作中に引用されるリチャード・ハル『伯母殺人事件』の主人公とは対照的だ。彼は自分の生命線を脅かされる事のない立場にいながら殺人を行おうとしたのだから。

ハルビン・カフェ/打海文三

ハルビン・カフェ (角川文庫)

ハルビン・カフェ (角川文庫)


 本作を評して「神話的な歴史小説」とは解説・大森望の弁だが、その通りだと思う。深淵であるのかそうでないのかすらも判別のつかない主人公の「神意」は、通常のハードボイルド以上に倒錯した酩酊をもたらす。「すでに過去のものとして語られる」「近未来の」「現実にはありえない都市」という三重の捻れも非常に効果的であり、物語世界は読者にとって完全に彼岸であるのにそうではないような感覚を残す。


 主人公は多くの化身を持ち*1、崇高さを感じさせながらも同時に快楽主義者であり、全ての物語の登場人物である。あえて世界の神話に当てはめるなら、ギリシャ神話のゼウスが近しいだろうか。
 全能を気取った好色なゼウスが未熟なテロリズムを破壊していくカタルシスが物語の力点だが、ともすれば不快なインテリ批判に陥りそうなところを魅力的な主人公の描写で救っている。この匙加減は絶妙である。


 理性と本能の同居こそが人間であり、どちらかが肥大化した人間は滅びの道を歩むという図式は常に見え隠れしており、このあたり読者を選びそうな気もするが、ここにはまれれば稀なる傑作。

*1:登場人物表を注視すると、主人公は別名義で2回も表記されている。

容疑者Xの献身/東野圭吾

容疑者Xの献身

容疑者Xの献身


 東野圭吾の作品群はデビュー時から一貫して「本音と建て前」というテーマが通底しており、対家族・恋人・友人・社会の自意識によってドラマをつくり上げる。登場人物たちは「強い視線」をあるときは送り、あるときは受けとる。


 その意味では本作は『悪意』と表裏一体作だと思った。健全な殺人動機⇔陰惨な悪意をテーマとした『悪意』に対して、『容疑者〜』は惨めな建て前⇔純愛である。
 どちらかというと、人間臭いドロドロした感情をマグマのように溜め込むことの多い東野の作品群にあっては、『容疑者〜』は珍しく潔癖なドラマをつくったともいえる。


 本音と建て前は、真実と嘘ほど可分なものではない。装いに本音が表れることもあれば*1、誤魔化された本音というものもある。少なくとも東野はそのボーダーの揺れを書いてきた作家だ。が、今回は狂った聖人を書いてしまい、そこに俗悪な本音は何もないと断じてしまった。


 というわけで、なんか引っかかるお話だった。これを抜け抜けと「純愛」と標榜してしまう作者にはなんか裏がありそうだなと思った。本格としては美しいけど、『悪意』を絶賛した身としては手放しで賞賛する気になれない。もっと俗っぽい人を書いてこその作者だと思うのだけれど。


 追記:ところで、(ネタバレ反転)事件発生直後に石神が駆けつけたのは、この時点ですでに盗聴していたからじゃないんじゃないの?(ここまで)という疑問に納得のいく説明がされていない。このことが(ネタバレ反転)石神の隠された変態性を示唆している(ここまで)ならば、傑作と言わざるを得まい。深読み?

*1:『秘密』の指輪とか。